2017年1月6日(土曜日)部活の問題:ブラックにしたのは誰だ?

  • 2018.01.07 Sunday
  • 09:12

 

 まず、来週のトークイベントについて。14日の日曜日の午後三時から名古屋のロフト(地下鉄矢場町駅)の七階ジュンク堂書店でボクと仲間二人と一緒に「トークショウ?」をする。テーマは「体育、スポーツ、オリンピック」だけど、スポーツと教育の管理問題や部活のブッラク問題についても話そうと思う。

 

 このイベント、元々は、恩師の影山健(愛知教育大学名誉教授)が2016年6月に亡くなり、その記念論文集『批判的スポーツ社会学の論理』(ゆいぽおと)を発刊した記念の催しである。下のサイトに詳しいので、時間のある人はぜひともおいでください!

 

https://honto.jp/store/news/detail_041000023757.html?shgcd=HB300

 

 さて話題になっている「ブッラク部活」問題だけれど、部活動に対する、かなり批判的な意見も市民権を得て、ボクが問題を提起したころにくらべ、ネットを中心になかなかみんなよく勉強していて面白いし、いいことだなあと思う。応援したい。

 

  ただ、ボクは部活廃止論者で、多くの論議と若干ちがっているなあと思うので少し書いておこうと思う。まず、一番肝心なことは、この部活問題は教育問題と労働条件問題にわけて考えるべきだと思うのだ。「そんなの分けられません」という人がいるが、分けるというのは別個に考えるということではなく、関係性をはっきりさせて考えようということだ。

 

 どんな関係性かというと、労働問題のブラック性を教育問題で論点を曖昧にするという関係だ。そして、教育問題のブラック性を「個人的幻想」に終始して、突っ込んで考えていないような気がする。

 

 まず、教育問題としては、それがスポーツ教育(ま、この場合運動部活に、とりあえず限るけど)としてどうなのだということだ。「一生懸命・汗と涙・やっててよかった」というのは、あくまで個人的な幻想であって、それを楽しんでいるという点においてはいいんじゃないかと思う。ただ、それは素晴らしいことだとか言われて、それが「普遍的」とは言えないのだということだ。(このあたりはオリンピックの問題と同じ:いずれまた)

 

 スポーツは今回のイベントでも話せたらいいなと思うけれど、一種の象徴的暴力を醸成していく。競争原理や優勝劣敗の思想を参加者にすり込む。この点においてはもう少しきちんと論議したいが、ま、ブログなんで許してほしい。

 

 部活動に教員が熱心なのはいろいろと理由があるだろうけれど、結局は個人的に充実しているからだし、子どももそうだろう。つまり充実できない人、部活で充実するつもりのない人は参加しないということだ。ただ、その充実は「趣味の範囲」なのか、「学校という場での公的活動」なのかということをはっきりさせなくてはならない。

 

 もし、趣味的な活動なら、つつましく、できれば学校の外でしっかりとクラブチームでも作って頑張ってほしいし、そうあるべきだ。そして、趣味活動なのか、趣味が高じた場合はプロへの道をめざすのかということもはっきりと示さなくてはならないだろう。

 

 指導者もやりたい教員もやればいいし、民間から雇ってもいい。あるいは、教員も民間のクラブチームに雇われてもいいことにすればいいのだ。入部退部も自由自在だ。費用に関してはとりあえず自己負担だが、将来的には公的負担も一部あってもいいだろう。そこで、人生論や教育論を語るのは自由だ。できれば、場所は学校でない方がいい。これは、かなり現実的な話だと思う。(けっこう、いいこというな:自画自賛)

 

 また、もう一つのケース。学校という場での公的活動ならば、きちんと環境整備する必要があるし、対外試合や校外公演は必要ない。教科など授業時間として行う一つの学習領域と考えて、種目や内容に選択制があってもいいし、すべての子どもにチャンスを与えるようにするべきだ。もちろん、レギュラーとか補欠という発想はあり得ない。そして、優勝劣敗の思想や競争原理思想については批判的な立場で行う必要がある。名古屋では「正課クラブ」と言って週一回やっていたが、今は年間15時間くらいかな。そんなものがよろしい。(これも、いいじゃないか)

 

 さて、労働条件問題としての部活は、明らかに違法だからやめましょう。これで終わり。これは、多くのみなさんが指摘しているように、「部活指導をやらせたいなら命令してください」と言うことを管理職に言うしかないし。管理職の「勤務です」という了承を得てからするべきだ。まず勤務とは言わないだろうけど。最終的に管理職は「時間外は自主的自発的労働ですから、命令はしていません」という。つまり、教育論が入る余地はないのだけれど、「子どものことを考えていない」なんていう、筋違いの話(つまり、教育論ね)を持ってくるから混乱する。

 

 「給特法」の廃止は賛成。ただ、そうなると、交渉能力のある労働組合がよほどしっかりしていないと、三六協定などが悪用されたり、組合攻撃がはじまっちまうぜ!と注意と覚悟を促したい。杞憂ならいいけど。本日はここまで。

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    12月24日(日曜日)切手とパンツ

    • 2017.12.24 Sunday
    • 18:55

    最近、おもしろい問答集をみつけた。こんな記事が書けたらうれしい。

     

    問:5年生の息子が、最近、一緒に家族でお風呂に入らなくなり、性について興味を持ちだしているように思います。私としては、お父さんがきちんと指導してくれればいいと思っているのですが、そんなことは自然でいいと、逃げています。将来、息子がパンツ泥棒になったらどうしようかと、悩みはつきません。(主婦:35歳)

     

    回答:男の子が性に興味を持ったり、自分の体を見せたりしたがらないのは、ごく普通のことだ。しかも、性の成長は、年齢の幅も大きく、個人差もとても大きい。心配はいらない……と思う。

     お父さんが、自然でいいというのは、確かに、逃げだが、逆に、あまり熱心に、そして真剣に性について教えるのも、どうかと思う。学校の先生ならいざしらず、普通のお父さんが、性教育を一生懸命やっている姿は、ちょっと理解しがたいな。嫌なおやじ以外ではない。想像するとちょっと変だ。もちろん、何気なく、自然に(これが、一番難しい)教えればいいがなあ。

     パンツ泥棒に飛躍するのも、気持ちは分からなくもないが、ちょっと無理がある。パンツ泥棒は、いけないが、合法的パンツ収集はあり得る。つまり、合法的パンツ収集はモデルガン集めや、切手収集、ポケモンカード収集と同じ質のものだ。切手は社会的に受容され、パンツは受容されにくいというのは、しかたがないが、本当は同じレベルの話だ。切手収集だって、泥棒して集めるのはいけないだろう。

     児童買春や幼児ポルノなどは、許し難い人権の侵害であるが、合法的なパンツ収集家と同列にするのはおかしい。私は仕事に必要でもあるのだが、本の収集をしている。古本店を歩き、あの古い本のかびたような紙の臭いが大好きだ。あれだって、一つ間違ったら変態扱いだろう。古本だってパンツだって同じなのだ。

     いずれにせよ、性的衝動の高まる子どもたちを「安全、合法」の世界に導くのも親と、社会全体の役割である。付け加えるが、私はパンツ収集に興味はない。

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      11月26日 再度 札幌へ「学童保育研究集会 in北海道」 後編

      • 2017.11.26 Sunday
      • 19:12

       講演会は午前10時15分から80分間ということだったので、「時間は守りますよ、大丈夫」と係の人には伝えた。ストップウォッチをタイマー使用にしていつも使っている。だから、ほとんど延長はない。

       

       テーマは「子どもから学校が見える、家庭が見える」ということで400人近い参加者を前に話す。エントランスで突然、友人に出会う。わざわざ来てくれたのだ。ありがたい。ほとんどが学童保育所など放課後の子どもたちの集う施設の指導員やスタッフだという。比較的ちゃんと(笑)した、厳かでまじめな集会で、簡単な主催者挨拶の後、国会議員や北海道議員など多くの来賓もあって紹介された。その後に基調報告がなされ、記念講演となる。

       

       前の方に座っている人しか見えない。なんだか自分だけがステージで照らされている感が強い。こういうステージ系講演はいくつも経験してきたが、話す相手の顔がしっかり見えないのでつらい。

       

       子どもの実態やリアルな言動を例示しながら、それをとりまく大人が翻弄されている話や「熱意を持って話せば分かる」という安易な考えはすてようという話をした。「やればできる」というのも、そういう「やればできる」ということもあるし、「やってもできない」ということだってあるのだとわきまえる必要があると……などなど。で、やれないことがあっても、「どってことないこと」もたくさんあるし、だからといって人として値打ちがないということではないんだよね!と強調。

       

       モンスターペアレントだって、よっく話を聞けば理解できることや共感できることがたくさんある。実は、その上で、「過剰だよ」「非常識だよ」「それは無理だ」「相手のことをもっと考えてよ」と伝えればいいのだと、私は思う。「過保護」を嘲笑するなと。

       

       とにかく、子どもは面倒くさくてやっかいで憎たらしくうっとおしい……が可愛いのだ。つまり矛盾した存在なのだ。子どもの「屁理屈」も楽しむ方法がないわけではないと具体的に話す。叱るということも「またやるだろうな」とか「わびてはいるがそれほど感じてはいないだろうなあ」等と思いつつ叱らなくてはならない。根気よくくり返すのだ。

       

       ……等々いつもの話を順番に話す。最後に志を高く持つことが重要だということ。いじめについても、両者の話をきける環境や習慣など、「なんでも話しなさい」などと言う前に、子どもにとって、それが可能な状況かどうかを、謙虚に検証する必要があるのだと思う。「聞いても話してくれないんですよ」などと言っていてはいけないのだ。

       

       教育や子育ては環境が重要であり、とりわけ「人的環境」が一番だと思う。だから、家族、学級、学童保育所、地域、子供会などは本当に子どもが育つよい環境でなくてはならない。もちろん、そこはディズニーランドではない。厳しいこともあれば、つらいこともやらなければならない場である。なにせ生活の場なのだから。しかし、私たち大人は自分の見ている方向や自分が何を大事にしているかを子どもに示すことが自然とできるはずだと思う。ああしなさい、こうしなさいという前に、すでに子どもは大人のそれを見ているのだ。だからこそ、家庭はたいへんだ。

       

       とまあ、そんな話をずらずらとしてしまった。本の販売コーナーでサインをしてから、昼食。午後には障害児と学童の分科会にちょっとだけ参加して失礼した。帰名するスカイマークの最終便までには時間がだいぶあるが、札幌の駅近辺を探索し、歩き回った。さすがに足がつかれ、リュックが肩にくいこんできたので、空港で喫茶店、フードコートで夕食、そこで椎名誠『哀愁の町に霧が降るのだ』844頁を読み終わった。最後は1080円(ソフトドリンク自由)払って、スパーラウンジのカウンター席でこれを書いている。

       

       北海道へ行ったり来たりの日々がやっと終わる。

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        11月25日 再度 札幌へ「学童保育研究集会 in北海道」 前編

        • 2017.11.25 Saturday
        • 23:18

         

         今回も札幌一泊旅行である。1週間に二回も札幌にいくことなんて初めてだ。講演依頼をされたときは、半年くらい先の話だから、手帖のカレンダーをみて特に何も無ければ受けてしまうので、今回のような事が起きる。水・木と土・日なんだから金曜日に札幌で泊まれば、一回で済むのだ。だがしかし、金曜日の午後は日本福祉大で一コマぽっきりの講義依頼も受けていたので、午前中に勤勉に非常勤講師の授業をやって、午後に知多奥田まで名鉄で出かけて授業をしなければならない。つくづく計画性のないことをやっていると自分でも思う。

         

         いつもは金山からセントレア(中部国際空港)までの名鉄スカイミューで往復するのだけれど、今回は日曜日の帰りがかなり遅くて、ひょっとして深夜足止めになると困るので(月曜日はとりあえず授業)、はじめて自宅から自家用車で行った。

         

         いつもと違う経路で出発口の方へ向かうと、英語ができるか?とアメリカ人初老男性(おそらく、イギリス英語ではなかった)に聞かれ、なんだ?というと、スカイタウンはどこだという。スカイタウンというのは中部国際空港に用がなくても、つまり、飛行機とは関係なくみんな楽しめますよというウリのお店や食事処の集合した場所。たまにしか来ないので、よく分からないんだと答えて、進むが、どうも気になって、壁にあったビルの説明を読むと、四階にあることが分かった。引き返して、彼に、このビルの四階だよと伝えると、感謝される。これで、夜になれば、「岡崎さんの家はどこだ、親切な岡崎さんの家はどこだぁーと、おじぞうさんが米俵を持ってきてくれるはずだ。

         

         予定通りの時刻で、スカイマークに乗ったら、右隣に座った女の子がいつまでたっても分厚いオーバーコートを膝の上に乗せている。おじさんが上の荷物収納に乗せてあげようかと思ったが、ひょっとしたら大事なコートで余計なおせわだといけないなあと。ところが、収納棚に目をやりながら、入れたらいいかどうかと迷っているようにも見えた。

         

         アテンダントが通るときに、ぼくが「あのーその上着を上のロッカーに入れたらいいんじゃないの」と、どちらに言うともなく言うと、アテンダントが「大丈夫ですよ、入れましょうか?」と女の子に声をかけてくれた。すると「ありがとうございます、いっぱいで入らないかと……」と彼女はアテンダントに上着を渡して、ボクに「どうもすみませんでした。ありがとうございました」とちゃんとお礼を言うので、「若いのに偉いねーよしよし」とは言わかったけど、「よかったねえ、2時間近く膝の上に置くのはねえ……」と笑顔で応じた。「主体的・対話的学習の成果」はこれからどうなっていくのだろう。これで、夜になれば、「岡崎さんの家はどこだ、親切な岡崎さんの家はどこだぁーと、おじぞうさんが米俵を持ってきてくれるはずだ。

         

         左の窓際の30代女性は紫の髪に、五本指全部違う模様と色のデコネイルであった。本来は先に窓側座席に案内されているはずだが、用があって遅れたらしい。すでに座っているぼくの前を通ろうとするので、「あ、ぼく立ちますよ」と通路に出て、彼女を通した。ちょっとムッとしているので、なんだこいつは!と思ったが、しばらくすると、ひょっとして、「あたしが、太っているので、あしもとが通れないというのね!なんて失礼な」的オーラが出ているようにも思えた。ちょっとぽっちゃり型なのは確かだが、飛行機の座席は本当に狭いから、よろけて万が一 膝の上に乗られたら困ると思うのだ。だから、ぼくは大抵、座席の奥に通すときは新幹線でも飛行機でも必ず、立って通路に出るようにしている。

         

         飛行機のような、二時間の近接座席での関係が平穏無事になることを祈って、いろいろと気を使う。札幌に着くと雪だらけで、下は滑りそうだし大変だった。ホテルが駅から100mもない近いところだったので助かった。しばらくすると電話があり、近くで実行委員会の食事会懇親会があるので参加して欲しいと。一緒に十人くらいの人と話をする。顔見知りもいて気楽な雰囲気で話を二時間近く。明日の講演のエネルギーは使い果たした感があった(笑)。

         

         ホテルに戻って、明日の講演の内容をチェックし、椎名誠『哀愁の町に霧が降るのだ』490頁くらいから読みはじめる。なんどでも読んでるけどね。11時40分になったので『さくらの親子丼』最終回を視て眠る。つづきは明日。

         

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          11月19日(日曜日)2008iMacの引退と新人2017iMac 華美な服装って?

          • 2017.11.19 Sunday
          • 19:52

           PCを使っていたら、とつぜん、再起動が繰り返され、黒いカーテンが下からやってきて、フッと消え、また……。こりゃダメだと、アップルの担当とチャット(別のiBookで)をして症状の診断をしたら、近所でこんなお店がありますよと教えてもらい、すぐに車で20分の修理屋さんへ持ち込む。五時間後電話で、グラフィックガードがもうダメですねとのこと。結局、中のHDDを取り出してもらい、本体は引退。これを使おうと思っても、修理に必要なものが中古しかないので、寿命が保証できないということ。非常にテキパキと処理。

           

           結局、新しいiMacを求めた。しかし、再構成に三日。まだ十分ではない。非常に使いにくい、言語ソフトのコトエリの代わりにATOKを入れようとするが、ディスクが入らないじゃないか! えええ、外付けのドライブが必要なんだってぇぇ。……などなど。

           

          「ドクターポカ」というペンネームの人が書いた文章を見つけた。ちょっと面白い(笑)。こんな人もいるんだなと思う。大阪の高校生の黒染め裁判も、色々と意見があるが、私としては、とにかく髪の毛なんてどうでもいいんじゃないか……という意見。つまり、自分の好みなんだから、校則とかでいちいち言うことじゃあないだろうと。a

           

           

          Q:小学校六年生の娘が、露出度の高い服装で学校へ行きたがります。夏休みに入ると、学校のしばりがなくなって、またまた派手になりそうです。髪を染めるとか、パーマをかけると言い出しかねません。やめさせたいのですが、どうやって、説得したらいいでしょうか?(パンチパーマ夫を持つ妻:38歳)

           

          A:まあ、小学生で頭を染めたり、「尋常(主観的だけどね)」でないカット(モヒカン刈り)、ピアスなどをしてくるのは、子どもというより親の好みだろうな。まあ、親の意識とか文化レベルなど「親の値打ち」を測られていると思った方がいい。要するに、親が子どもを通して、目立ちたいというだけだ。

           こういう問題は、二つの種類の親に分かれる。「人権における表現の自由」という格調高い親子、もう一つは、単なる尻軽ヤンキーの二世代おろか者親子(世襲ヤンキー?)である。

           真面目な親子が、きちんと論理を展開できるなら、茶髪だろうと、ピアスだろうと全体に迷惑をかけることはないし、学習もしっかりとやっているだろう。モヒカン刈りも少数民族へのレジスタンスという政治的行為なら許せる教養もあり、学校にも知的に対応できるインテリで真面目な親だ。

           だが、世襲ヤンキーの場合は、めちゃくちゃだろう。この六年生の娘さんが、どっちの道を選んでいるのか? もし、「表現の自由」路線でいくなら、まず、子ども人権宣言や子ども条例をきちんと理解し、親もしっかりと学習しなくてはいけない。

           さいわいあなたは、親として、「みっともない」という常識をもっているらしいから、それを確固としてゆずらないで行くべきだろう。つまり、「私は、親として恥ずかしいからやめよ!」でいいのだ。お金を出して買うのは親だ。

           ただ、学校という社会と、家庭という場と分けて、身につけさせるのも一つの方法である。子どもの気持を、少し受け入れながら、同時に枠にもはめる。このバランスである。それは、賢い親ならできるのだ。くれぐれも「みんながやっている」からという話にのってはいけないし、「学校で厳しく言ってもらえば」みたいな、学校依存や責任の転嫁は、やめた方がよい。

           

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            10月10日 体育の日の「反オリンピック」

            • 2017.10.14 Saturday
            • 20:48

             

             10月9日体育の日に東京・文京区で「オリンピックはスポーツをダメにする」という集会が開かれた。2020東京オリンピックについて問題点をいくつか指摘し、返上できないかと模索しているグループに乞われて参加した。

             

             当日は50名ほどの参加者で、懐かしい顔もいくつかあった。私も、久々のスポーツ・体育批判の講演をすることになった。もう一人、成城大学のスポーツ社会学者の山本敦久さんの講演もあった。二人で、オリンピックとスポーツの問題についていくつか話をした。

             

             山本さんは、トップアスリート達自身がオリンピックの場で政治的なパーフォーマンスをしてきた歴史を具体的に述べて、スポーツの政治性を明確にした。私自身いつも思うのは、スポーツと政治の共犯関係の明確な存在だ。「スポーツに政治を持ち込まない」というのはいかにも正しそうだが、現実は、その物言いが、スポーツに内在する政治性の隠れ蓑になっている。

             

             最近だと、イランの代表チームの選手がイスラエルとのサッカーの試合に参加したことで、イラン代表チームから除名された。FIFAはプレーへの政治介入を禁止しているが、この問題、どうとでも解釈できる。つまり、イスラエルと試合をしたことが政治的なのか、試合をしないことが政治的なのかである。政治介入を禁止したところで意味はない。どこの国の選手でもスポーツの理念(神話だけど)なら(たとえば、オリンピック憲章では国家の所属と関係なく選手は参加できるはずなのだが)試合はできるはず。しかし、スポーツ、そしてオリンピックは政治と無関係でいられるはずがないということだ。

             

             また、トランプ政権下で今、人種差別や黒人への警察暴力に抗議するプロスポーツ選手が国旗に「敬意を表しない」という政治的アピールをしている。これはどうなのか? 政治をスポーツに持ち込むな!という批判もあるが、逆に、どうして政治を持ち込んではいけないのか?ということにもなる。

             

             私は、「スポーツは政治的に自由ではありえない」と思っている。政治から自由なスポーツなんてあるのだろうか。体育会系人間やスポーツマンやアスリートが「政治的なことはよくわかりません」と発言しているのは、政治に関わるとスポンサーがつかなくなるという政治性があるからだ。「よくわかりません」ということ自体が極めて政治的だ。

             

             この日、私は「オリンピック精神」からスポーツ・体育を問い直す というテーマで、サブテーマは「参加することにも意義はない!」と若干挑発的に(笑)話をした。

             

             こんな話をした。スポーツには感動の強制がある。スポーツや体育は「汗と涙の努力」が必要十分前提条件になっている。しかし、一方では「いくら頑張っても、勝たなければ(できなければ)意味がない」と堂々と発言されるし、それが肯定される。この矛盾したスポーツや体育の論理構造自体は常に再構築されながら確固としたものとなっていく。

             

             会場は、熱気にあふれ、討論も活発に行われた。

             

             スポーツや体育で活躍する人も活躍しない人も、東京オリンピックを考え直して欲しいと思う。師・影山健は「2020東京オリンピックをすれば、東京は荒廃するね」と語っていた。そうならないことを願うが、「オリンピックに反対する人の意見が封殺されることになったら、民主主義どころか、最悪最低の国になる」と私は思う。

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              10月7日(土曜日)午前中の琴寄政人さんとの話

              • 2017.10.13 Friday
              • 18:07

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

              ちょっと出かけることが多くてブログに書きたいことがたくさんあるのに、書けなかった。やっと、こうして書けるようになった。

               

               まず、10月7日のこと。午前中は琴寄政人さんに久々にあって(30年ぶり!)2時間くらい話をした。琴寄政人さんとはかなり昔に一緒に本を出したり、対談したり、いろいろとつっこんだ話をしてきた。(『学校幻想をめぐって』1991年三交社)

               

               間に立ってくれたのは山本哲士さん。まあ、山本哲士さんについては言わなくていいでしょう。私は山本さんにイリイチ、フレイレ、ブルデューについていろいろと教えてもらい、自分の教育に対する理論と実践というものの距離の取り方を学んだ。1980年代は充実した教育学研鑽の日々だった。

               

               そのとき、琴寄政人さんという中学校の教員に会った。かれは、現場というものに、のめりこまずにおもしろさを語れる人だった。彼は、すでに退職して福島に通い、大川小学校の人災についても当事者の人達と繋がりながら、ずっとそれを「学校」と「社会」の問題として語り続けている。

               

               琴寄さんと私は共通の視覚と臭覚があると勝手に思い込んでいる。現場というものをどういうふうに見るか、どういう風に関わるかということを重層的に捉えているということだ。たとえば、一つの現実を目の前にしたときに、自分がどの角度でそれを見、子どもとどの程度距離を置き、どんな言葉で、どんな抑揚で話しかけるかという「めんどうなこと」(わたしのことば)を請け負うのが教員だということ。

               

               当日、私は琴寄さんにこんな話をした(琴寄さんにはウケた(笑))。担任している子どもが三年生だったとおもうけど、当時、教室で飼っていた金魚(今時、金魚なんて教室で飼うことは少ないけどね)が死んだとき、子どもが「せんせい、死んだ金魚は燃えるゴミの方に入れればいいんですか?」と聞いてきた。

               

               私は考え込んだ。子どもだから「お墓をつくろう」とか言うものだと思い込んでいた自分は虚を突かれた。そこで、「金魚が死ぬってどうことだろうね」とわけのわからないことを子どもに言った覚えがある。つまり、子どもは素朴に聞いているだけなのに、自分は、この現実を教育的にさばくことは無理だと思ったのだ。自分は、とても大きな問題をかかえてしまったなあと。

               

               で、このことを琴寄さんは笑いながらも受けとめてくれる。どうしようもないめんどうなことを私たちは子どもと生活の中でやりとりしている。これを道徳や生活指導的な学校教育の範囲で回収できると思う人はそれでいい。だけれど、私は無理だった。たくさんの課題や矛盾や暗さが頭と心を占領するのだ。時間をかけて考えればいろいろな意見や忠告がきけるだろうが……。

               

               ……とまあ、こんな話をしながら楽しく(笑)語った。その後で、遅れてきた山本哲士さんにも会って、小一時間なつかしく、かつ山本哲士さんのあいも変わらない原則的な話(いつも課題や話題は違うのだが、私には通底している原則の展開に聞こえる)を聞き、私はちょっと愚痴を言い、嫌味を言い、山本さんに数冊の本をもらい、三人で笑って、その場所をあとにした。宮台さんとユンさんに会うために鶴川に向かって移動した。

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                8月9日(水曜日) フリースクールという「居場所」でも少数派の私

                • 2017.08.09 Wednesday
                • 11:11

                 

                 子どもたちの居場所ということを「意識」しなくてはいけなくなったのと、地域の関係の希薄さというのが言われるようになったのは、ほぼ同じ時期のような気がする。それは、学校という居場所が「登校拒否」「不登校」に向き合うようになった時期でもある。

                 

                 学校が生活しづらい場所になっているというのは、一般的に言える。40年近く学校に関わってきてそう感じる。子どもだけでない、学校で働く私達だって同じだ。教員、業務士、事務職員、給食調理員等々、みんな仕事がしづらくなっている。

                 

                 理由はいくつかあるが、「時間のなさ」だと思う。誰にも1日24時間で平等なのだが、中身が詰め込みすぎということだと思う。忙しいと無思考になるだろう。それがエンデ『モモ』を読むとよく分かる。

                 

                 つまり、子どもも教職員もみんな生活しづらくなっているのだから、不登校の存在は当然だし、病める教員も多くなっている。個人的責任ということで片づけられる物ではない。もっと言えば、学校だけでなく、地域や住居つまり、世界が生活しづらくなっていると考えた方がすっきりする。

                 

                 ただし、その中でも、子どもたちは元気だし、私が関わっているフリースクールも「居場所」としてとてもいい感じだ。子どもたちも、自分たちになりに工夫し、努力している……ように見える。で、同時にスタッフも、そのはしくれも(私のことだけど)それなりに工夫し悩み考えている。しかし、子どももスタッフもそれが「充実した楽しさ」につながるので、現状維持、あるいはそれ以上できているということだ。

                 

                 ほんとうは、フリースクールは学校からの「逃げ場所」ではない。色々な理由で学校へ通うことを選択しないで、フリースクールに来ている子どもたちは、かなり努力していると私は思っている。なぜなら、フリースクールは、学校という世間で疲れた身体と心の休養の場でもあるが、そこから立ちあがる場所でもあるからだ。フリースクールは文化を生み出し、創造する場所だからだ。それなりに、子どもたちは疲れる・エネルギーが必要な場所なのだ。

                 

                 だからこそ、学校と違ってフリーに選べるスクールなのだ。フリースクールだからといって不登校の子どもにみんな適しているとは限らない。いろいろなフリースクールを試してみればいいのだ。自分にあうところがきっとあると思う。でも、なければないで、ホームスクールという手もある。以前、田舎なのでフリースクールなんて無いんです!どうすりゃいいんですか?(怒)ということもあったけど。

                 

                 学校へ戻ることを目標にする必要はない。もちろん、学校に戻る自由はあるけれど。学校が正規で、フリースクールが非正規ということはないのだ。これは、教育の論理からいってもそうだ。ここでしかできないことをやればいいだけの話だ。子どもたちにはフリースクールでそれに向き合って欲しい。いや、少なくとも私の目の前にいる子どもたちはすでにかなり創造的だ。

                 

                 人と人が相性よく、うまくいくのは、三人に一人くらいだろうと思う。どんな場所だって、みんなと仲良くなんてのは無理なのだ。だから、学校も教員の三分の二くらいは、自分とって「はずれ」と思っていい。ただ、他の子どもにとってはいいかもしれないけど……くらいは許さないといけない。

                 

                 私の行くフリースクールのアーレの樹で、週一回、「さあ、勉強しますよ」と入っていくと、「やったぁー 岡崎先生大好き、勉強させてくれて」という子どもはいない。「ええっ、なんで勉強するのぉぉぉぉ」とほとんどの子どもが言う。あとは、無視(笑)される。でも、有能で、子どもの気持ちが分かる、分かろうとするスタッフがいるので、私自身が子どもたち全員に嫌われてもいいのだという「安心感」がある。アーレの樹の子どもたちにあえて「なんとか勉強させてやろう」という天の邪鬼な役割を負って関わっている。それが面白い。

                 

                 学校がもし、もっと自由というものを危険を承知で受け入れてくれたら、もう少し、生活しやすくなるのではないかと思う。学校でもフリースクールでも「少数派」を楽しむことができるようになったので、今まで以上にそう感じる今日この頃です。

                 

                *お盆明けに、講座や講演、研究会、授業が目白押しなので、準備に頑張っています。そろそろ孫たちが来襲し、時間を乗っ取られるので、うろたえています。

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                  7月14日(土曜日) 段落の最初の行でも一字サゲニセズ『三四郎』

                  • 2017.07.15 Saturday
                  • 21:00

                   

                   ここ数日は、熱中症でもないが頭が痛くなることもあるが、熱いのはさほど気にならない。気に障ることはいくつかあるけれど、多分、年のせいだろうと思う。

                   

                   原稿をいくつか書いているが、連載を含めて題材にことかかないのは、自分の頭が学校化?されているかもしれないからだろうなと自覚している。学校、子ども、保護者、教育、教員、ほんとうに、面倒なコトがいろいろあるんだなと思う。

                   

                   書き物はパソコンのワードで書いているが、ご親切に不適切な、あるいは間違っていると赤いアンダーラインをつけてくれる。しかしながら、直さなくてもいいようなところに、アンダーラインが引かれていると、ちょっとムッとして、悲しい。

                   

                   ちょっと話は変わるが、今日『三四郎』を読み終わった。何度読んだか分からないが、夏が近づいてくると読みたくなる。で、漱石は毎回発見がある。内容については、私自身たいした読解力もないので、書かない。新しい発見があった。段落や節のはじめは、たいていひとマスさげるのだけれど、節・段落の最初なのに一箇所さがっていないところがあったので、印刷ミスか?と思ったが、それは、漱石の指示であった(注釈に書いてあった)。

                   

                   「八の九」の節の最初が「美禰子も三四郎……」とあるが、漱石は「一字サゲニセズ」と原稿用紙に書いている。おそらく、前の節からぐいぐいと続けて行くぞ!ということなんだろうけど、表現というのは、校正規則をまげてもいいんだよなということだろう。

                   

                   『お・は』は編集部の敏腕校正があるので、自分の駄文の修正はお任せしてある。漢字をひらがなにしたりするのは、『お・は』の習わしによって校正される。でも、「一字サゲニセズ」と私が書いたら、「何言ってるんですかぁぁぁ」と赤ペンが入ると思う、きっと。

                   

                   今日明日明後日と連休なのだが、草取りのまねごと意外には、ほとんど読み書きである。今年の夏の課題図書の「調査」(笑)と通読をしなければならない。私自身は、課題図書には「否定的」な考えしかないが、作品のできはまた別なのである。よんでみないと分からない。むろん、「すぐれた作品だ」という意見ばかりでなくてもかまわないが、「課題図書は明らかに、商売戦略で、結果的に、子どもに感想文を強要する」というところは断固反対である。

                   

                   仕事場は例によってクーラーもないので扇風機だけ。今日は、お昼過ぎに32度の室温だった。けれどなんだか凄く熱いとは感じない。風が通るからだろう。漱石三部作の読み直しだが、じっくりと、読んでみたい。

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                    7月11日(火曜日)忙しさの正体:「いい学校」「よい教員」それ自体を問うことから

                    • 2017.07.11 Tuesday
                    • 21:34

                     

                     教育総研が『教職員の自己規制と多忙化研究委員会報告書』を発表した。かなりの量だが、第一章の総論(広瀬義徳さん)と第八章の教員が語る教員の多忙化(四方利明さん)の部分を読み、直接二人の話を聞く機会があった。

                     

                     広瀬さんと四方さんの話はとても興味深く面白かった。私自身が愛知県の現場で「勤務条件闘争」を仲間とやってきて、いろいろと感じ、考えてきたことが、ある意味「集成」されており、納得するばかりだった。

                     

                     学校の多忙を「精選」「厳選」などして時間的ゆとりがうまれるなんてのはどうしようもない話だ。ずーっと40年くらいアナウンスされてきたが、それがうまくいったためしはない。なぜなら、学校教員はみんな沢山の仕事を「必要」だと思ってやっているからだ。

                     

                     やめられるものなら、とっくに止めている。私自身もいわれた提出書類を出さなかったことがなんどもあるし、「提出義務があるのか、法的に説明せよ」と言って、首にならないなら出さないと言って拒否したことがある。だって、学級の子どもの世話の方が大変だったからだ。そんな書類を作っている暇はない。

                     

                     ただ、保護者がいろいろな説明責任を求めるようになってきて、無理難題を言う保護者もいないわけではないが、多くは、子どもかわいさでアカウンタビリティーを行使するのだ。だから、むげに断ることもできない。気持も分かる。だから、書類が増える。突っ込まれないような書類を作るから、そして重箱のすみつつき論争になるから、保護者も教師も、本質を忘れて、やりとりに夢中になり、疲れることがある。全部じゃないけど。

                     

                     だから、当然、多忙になる。それは、教師だけでなく、保護者も、行政も「必要だと思うこと」で忙しくなっているのだ。それを、だれかの責任だと言い始めると不毛な、自己満足的なやりとりになり、結局、子どもはどうすりゃいいの的になる。最悪なのは、教師や親のやりとりに巻き込まれ子どもが右往左往している状態だ。そりゃ、多忙になるだろう。

                     

                    だから、報告書を詳細に読めば分かるけど、「マイナスすることからはじめる」とか、「子どものためを問い直す」ところからやらないとだめなのだ。

                     

                     今回のような報告書が日教組から出るとすると、それはある意味画期的だと思う。「子どものため論」で多忙解消はできないということだ。「やりがい搾取」ループをどこかで断たなければと思う。

                     

                     「教員は忙しいから本を読めない」と良く言われる。でも、忙しいからなのか? 実は、読む必要を「強く」感じていないから読まないのではないのか。だってどうしても必要なことだったら、優先順位が高ければ、何をさておいても読むし、時間を何とか作るでしょう。それをしないのは、すでに多忙は無思考を再生産しているからだ。多分、暇でも読まないと思う。本だって、いろいろあるからね。仕事関係だけじゃない。

                     

                     多忙で、授業の準備ができなきゃ、授業しなきゃいいのだ……ほんとうはね。今は、最小限の準備でできる授業しかやっていないということかもしれない。子どものためとか授業の準備とかができないからだけで、多忙化が困るんじゃなくて、私は、仕事になんだか「余裕」「ゆとり」がないからいやなのだ。超勤で、自分の家庭生活や趣味や仕事以外のことができないのは、人間的じゃないから多忙はダメなのだ。『モモ』を再読してほしい。

                     

                     部活については、「趣味的部活」ならば学校でもいいけど、選手養成や競技中心、あるいはコンクール上位ねらいなら、学校と切り離すというのが一番良い。別の組織で、学校とは関わりなくやるのが一番良い。外部講師はやめたほうがいい。かえって教師が忙しくなる。やるなら、外部部活が一番良い。それで、教員がその指導がやりたければ、休暇取ってそこへ行って、思う存分やればいい。

                     

                     「総論」は秀逸だと思う。ま、ぼくが言うこと無いけど(笑)。みんな分かっていると思いますが。今までの、日教組や研究者の論文や報告にはなかった視点や根本的な指摘が、広く生かされるといいなと思いました。

                     

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                      親が読んでもよく分かるように書きました。

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