11月19日(日曜日)2008iMacの引退と新人2017iMac 華美な服装って?

  • 2017.11.19 Sunday
  • 19:52

 PCを使っていたら、とつぜん、再起動が繰り返され、黒いカーテンが下からやってきて、フッと消え、また……。こりゃダメだと、アップルの担当とチャット(別のiBookで)をして症状の診断をしたら、近所でこんなお店がありますよと教えてもらい、すぐに車で20分の修理屋さんへ持ち込む。五時間後電話で、グラフィックガードがもうダメですねとのこと。結局、中のHDDを取り出してもらい、本体は引退。これを使おうと思っても、修理に必要なものが中古しかないので、寿命が保証できないということ。非常にテキパキと処理。

 

 結局、新しいiMacを求めた。しかし、再構成に三日。まだ十分ではない。非常に使いにくい、言語ソフトのコトエリの代わりにATOKを入れようとするが、ディスクが入らないじゃないか! えええ、外付けのドライブが必要なんだってぇぇ。……などなど。

 

「ドクターポカ」というペンネームの人が書いた文章を見つけた。ちょっと面白い(笑)。こんな人もいるんだなと思う。大阪の高校生の黒染め裁判も、色々と意見があるが、私としては、とにかく髪の毛なんてどうでもいいんじゃないか……という意見。つまり、自分の好みなんだから、校則とかでいちいち言うことじゃあないだろうと。a

 

 

Q:小学校六年生の娘が、露出度の高い服装で学校へ行きたがります。夏休みに入ると、学校のしばりがなくなって、またまた派手になりそうです。髪を染めるとか、パーマをかけると言い出しかねません。やめさせたいのですが、どうやって、説得したらいいでしょうか?(パンチパーマ夫を持つ妻:38歳)

 

A:まあ、小学生で頭を染めたり、「尋常(主観的だけどね)」でないカット(モヒカン刈り)、ピアスなどをしてくるのは、子どもというより親の好みだろうな。まあ、親の意識とか文化レベルなど「親の値打ち」を測られていると思った方がいい。要するに、親が子どもを通して、目立ちたいというだけだ。

 こういう問題は、二つの種類の親に分かれる。「人権における表現の自由」という格調高い親子、もう一つは、単なる尻軽ヤンキーの二世代おろか者親子(世襲ヤンキー?)である。

 真面目な親子が、きちんと論理を展開できるなら、茶髪だろうと、ピアスだろうと全体に迷惑をかけることはないし、学習もしっかりとやっているだろう。モヒカン刈りも少数民族へのレジスタンスという政治的行為なら許せる教養もあり、学校にも知的に対応できるインテリで真面目な親だ。

 だが、世襲ヤンキーの場合は、めちゃくちゃだろう。この六年生の娘さんが、どっちの道を選んでいるのか? もし、「表現の自由」路線でいくなら、まず、子ども人権宣言や子ども条例をきちんと理解し、親もしっかりと学習しなくてはいけない。

 さいわいあなたは、親として、「みっともない」という常識をもっているらしいから、それを確固としてゆずらないで行くべきだろう。つまり、「私は、親として恥ずかしいからやめよ!」でいいのだ。お金を出して買うのは親だ。

 ただ、学校という社会と、家庭という場と分けて、身につけさせるのも一つの方法である。子どもの気持を、少し受け入れながら、同時に枠にもはめる。このバランスである。それは、賢い親ならできるのだ。くれぐれも「みんながやっている」からという話にのってはいけないし、「学校で厳しく言ってもらえば」みたいな、学校依存や責任の転嫁は、やめた方がよい。

 

  • 0
    • -
    • -
    • -

    10月10日 体育の日の「反オリンピック」

    • 2017.10.14 Saturday
    • 20:48

     

     10月9日体育の日に東京・文京区で「オリンピックはスポーツをダメにする」という集会が開かれた。2020東京オリンピックについて問題点をいくつか指摘し、返上できないかと模索しているグループに乞われて参加した。

     

     当日は50名ほどの参加者で、懐かしい顔もいくつかあった。私も、久々のスポーツ・体育批判の講演をすることになった。もう一人、成城大学のスポーツ社会学者の山本敦久さんの講演もあった。二人で、オリンピックとスポーツの問題についていくつか話をした。

     

     山本さんは、トップアスリート達自身がオリンピックの場で政治的なパーフォーマンスをしてきた歴史を具体的に述べて、スポーツの政治性を明確にした。私自身いつも思うのは、スポーツと政治の共犯関係の明確な存在だ。「スポーツに政治を持ち込まない」というのはいかにも正しそうだが、現実は、その物言いが、スポーツに内在する政治性の隠れ蓑になっている。

     

     最近だと、イランの代表チームの選手がイスラエルとのサッカーの試合に参加したことで、イラン代表チームから除名された。FIFAはプレーへの政治介入を禁止しているが、この問題、どうとでも解釈できる。つまり、イスラエルと試合をしたことが政治的なのか、試合をしないことが政治的なのかである。政治介入を禁止したところで意味はない。どこの国の選手でもスポーツの理念(神話だけど)なら(たとえば、オリンピック憲章では国家の所属と関係なく選手は参加できるはずなのだが)試合はできるはず。しかし、スポーツ、そしてオリンピックは政治と無関係でいられるはずがないということだ。

     

     また、トランプ政権下で今、人種差別や黒人への警察暴力に抗議するプロスポーツ選手が国旗に「敬意を表しない」という政治的アピールをしている。これはどうなのか? 政治をスポーツに持ち込むな!という批判もあるが、逆に、どうして政治を持ち込んではいけないのか?ということにもなる。

     

     私は、「スポーツは政治的に自由ではありえない」と思っている。政治から自由なスポーツなんてあるのだろうか。体育会系人間やスポーツマンやアスリートが「政治的なことはよくわかりません」と発言しているのは、政治に関わるとスポンサーがつかなくなるという政治性があるからだ。「よくわかりません」ということ自体が極めて政治的だ。

     

     この日、私は「オリンピック精神」からスポーツ・体育を問い直す というテーマで、サブテーマは「参加することにも意義はない!」と若干挑発的に(笑)話をした。

     

     こんな話をした。スポーツには感動の強制がある。スポーツや体育は「汗と涙の努力」が必要十分前提条件になっている。しかし、一方では「いくら頑張っても、勝たなければ(できなければ)意味がない」と堂々と発言されるし、それが肯定される。この矛盾したスポーツや体育の論理構造自体は常に再構築されながら確固としたものとなっていく。

     

     会場は、熱気にあふれ、討論も活発に行われた。

     

     スポーツや体育で活躍する人も活躍しない人も、東京オリンピックを考え直して欲しいと思う。師・影山健は「2020東京オリンピックをすれば、東京は荒廃するね」と語っていた。そうならないことを願うが、「オリンピックに反対する人の意見が封殺されることになったら、民主主義どころか、最悪最低の国になる」と私は思う。

    • 0
      • -
      • -
      • -

      10月7日(土曜日)午前中の琴寄政人さんとの話

      • 2017.10.13 Friday
      • 18:07

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

      ちょっと出かけることが多くてブログに書きたいことがたくさんあるのに、書けなかった。やっと、こうして書けるようになった。

       

       まず、10月7日のこと。午前中は琴寄政人さんに久々にあって(30年ぶり!)2時間くらい話をした。琴寄政人さんとはかなり昔に一緒に本を出したり、対談したり、いろいろとつっこんだ話をしてきた。(『学校幻想をめぐって』1991年三交社)

       

       間に立ってくれたのは山本哲士さん。まあ、山本哲士さんについては言わなくていいでしょう。私は山本さんにイリイチ、フレイレ、ブルデューについていろいろと教えてもらい、自分の教育に対する理論と実践というものの距離の取り方を学んだ。1980年代は充実した教育学研鑽の日々だった。

       

       そのとき、琴寄政人さんという中学校の教員に会った。かれは、現場というものに、のめりこまずにおもしろさを語れる人だった。彼は、すでに退職して福島に通い、大川小学校の人災についても当事者の人達と繋がりながら、ずっとそれを「学校」と「社会」の問題として語り続けている。

       

       琴寄さんと私は共通の視覚と臭覚があると勝手に思い込んでいる。現場というものをどういうふうに見るか、どういう風に関わるかということを重層的に捉えているということだ。たとえば、一つの現実を目の前にしたときに、自分がどの角度でそれを見、子どもとどの程度距離を置き、どんな言葉で、どんな抑揚で話しかけるかという「めんどうなこと」(わたしのことば)を請け負うのが教員だということ。

       

       当日、私は琴寄さんにこんな話をした(琴寄さんにはウケた(笑))。担任している子どもが三年生だったとおもうけど、当時、教室で飼っていた金魚(今時、金魚なんて教室で飼うことは少ないけどね)が死んだとき、子どもが「せんせい、死んだ金魚は燃えるゴミの方に入れればいいんですか?」と聞いてきた。

       

       私は考え込んだ。子どもだから「お墓をつくろう」とか言うものだと思い込んでいた自分は虚を突かれた。そこで、「金魚が死ぬってどうことだろうね」とわけのわからないことを子どもに言った覚えがある。つまり、子どもは素朴に聞いているだけなのに、自分は、この現実を教育的にさばくことは無理だと思ったのだ。自分は、とても大きな問題をかかえてしまったなあと。

       

       で、このことを琴寄さんは笑いながらも受けとめてくれる。どうしようもないめんどうなことを私たちは子どもと生活の中でやりとりしている。これを道徳や生活指導的な学校教育の範囲で回収できると思う人はそれでいい。だけれど、私は無理だった。たくさんの課題や矛盾や暗さが頭と心を占領するのだ。時間をかけて考えればいろいろな意見や忠告がきけるだろうが……。

       

       ……とまあ、こんな話をしながら楽しく(笑)語った。その後で、遅れてきた山本哲士さんにも会って、小一時間なつかしく、かつ山本哲士さんのあいも変わらない原則的な話(いつも課題や話題は違うのだが、私には通底している原則の展開に聞こえる)を聞き、私はちょっと愚痴を言い、嫌味を言い、山本さんに数冊の本をもらい、三人で笑って、その場所をあとにした。宮台さんとユンさんに会うために鶴川に向かって移動した。

      • 0
        • -
        • -
        • -

        8月9日(水曜日) フリースクールという「居場所」でも少数派の私

        • 2017.08.09 Wednesday
        • 11:11

         

         子どもたちの居場所ということを「意識」しなくてはいけなくなったのと、地域の関係の希薄さというのが言われるようになったのは、ほぼ同じ時期のような気がする。それは、学校という居場所が「登校拒否」「不登校」に向き合うようになった時期でもある。

         

         学校が生活しづらい場所になっているというのは、一般的に言える。40年近く学校に関わってきてそう感じる。子どもだけでない、学校で働く私達だって同じだ。教員、業務士、事務職員、給食調理員等々、みんな仕事がしづらくなっている。

         

         理由はいくつかあるが、「時間のなさ」だと思う。誰にも1日24時間で平等なのだが、中身が詰め込みすぎということだと思う。忙しいと無思考になるだろう。それがエンデ『モモ』を読むとよく分かる。

         

         つまり、子どもも教職員もみんな生活しづらくなっているのだから、不登校の存在は当然だし、病める教員も多くなっている。個人的責任ということで片づけられる物ではない。もっと言えば、学校だけでなく、地域や住居つまり、世界が生活しづらくなっていると考えた方がすっきりする。

         

         ただし、その中でも、子どもたちは元気だし、私が関わっているフリースクールも「居場所」としてとてもいい感じだ。子どもたちも、自分たちになりに工夫し、努力している……ように見える。で、同時にスタッフも、そのはしくれも(私のことだけど)それなりに工夫し悩み考えている。しかし、子どももスタッフもそれが「充実した楽しさ」につながるので、現状維持、あるいはそれ以上できているということだ。

         

         ほんとうは、フリースクールは学校からの「逃げ場所」ではない。色々な理由で学校へ通うことを選択しないで、フリースクールに来ている子どもたちは、かなり努力していると私は思っている。なぜなら、フリースクールは、学校という世間で疲れた身体と心の休養の場でもあるが、そこから立ちあがる場所でもあるからだ。フリースクールは文化を生み出し、創造する場所だからだ。それなりに、子どもたちは疲れる・エネルギーが必要な場所なのだ。

         

         だからこそ、学校と違ってフリーに選べるスクールなのだ。フリースクールだからといって不登校の子どもにみんな適しているとは限らない。いろいろなフリースクールを試してみればいいのだ。自分にあうところがきっとあると思う。でも、なければないで、ホームスクールという手もある。以前、田舎なのでフリースクールなんて無いんです!どうすりゃいいんですか?(怒)ということもあったけど。

         

         学校へ戻ることを目標にする必要はない。もちろん、学校に戻る自由はあるけれど。学校が正規で、フリースクールが非正規ということはないのだ。これは、教育の論理からいってもそうだ。ここでしかできないことをやればいいだけの話だ。子どもたちにはフリースクールでそれに向き合って欲しい。いや、少なくとも私の目の前にいる子どもたちはすでにかなり創造的だ。

         

         人と人が相性よく、うまくいくのは、三人に一人くらいだろうと思う。どんな場所だって、みんなと仲良くなんてのは無理なのだ。だから、学校も教員の三分の二くらいは、自分とって「はずれ」と思っていい。ただ、他の子どもにとってはいいかもしれないけど……くらいは許さないといけない。

         

         私の行くフリースクールのアーレの樹で、週一回、「さあ、勉強しますよ」と入っていくと、「やったぁー 岡崎先生大好き、勉強させてくれて」という子どもはいない。「ええっ、なんで勉強するのぉぉぉぉ」とほとんどの子どもが言う。あとは、無視(笑)される。でも、有能で、子どもの気持ちが分かる、分かろうとするスタッフがいるので、私自身が子どもたち全員に嫌われてもいいのだという「安心感」がある。アーレの樹の子どもたちにあえて「なんとか勉強させてやろう」という天の邪鬼な役割を負って関わっている。それが面白い。

         

         学校がもし、もっと自由というものを危険を承知で受け入れてくれたら、もう少し、生活しやすくなるのではないかと思う。学校でもフリースクールでも「少数派」を楽しむことができるようになったので、今まで以上にそう感じる今日この頃です。

         

        *お盆明けに、講座や講演、研究会、授業が目白押しなので、準備に頑張っています。そろそろ孫たちが来襲し、時間を乗っ取られるので、うろたえています。

        • 0
          • -
          • -
          • -

          7月14日(土曜日) 段落の最初の行でも一字サゲニセズ『三四郎』

          • 2017.07.15 Saturday
          • 21:00

           

           ここ数日は、熱中症でもないが頭が痛くなることもあるが、熱いのはさほど気にならない。気に障ることはいくつかあるけれど、多分、年のせいだろうと思う。

           

           原稿をいくつか書いているが、連載を含めて題材にことかかないのは、自分の頭が学校化?されているかもしれないからだろうなと自覚している。学校、子ども、保護者、教育、教員、ほんとうに、面倒なコトがいろいろあるんだなと思う。

           

           書き物はパソコンのワードで書いているが、ご親切に不適切な、あるいは間違っていると赤いアンダーラインをつけてくれる。しかしながら、直さなくてもいいようなところに、アンダーラインが引かれていると、ちょっとムッとして、悲しい。

           

           ちょっと話は変わるが、今日『三四郎』を読み終わった。何度読んだか分からないが、夏が近づいてくると読みたくなる。で、漱石は毎回発見がある。内容については、私自身たいした読解力もないので、書かない。新しい発見があった。段落や節のはじめは、たいていひとマスさげるのだけれど、節・段落の最初なのに一箇所さがっていないところがあったので、印刷ミスか?と思ったが、それは、漱石の指示であった(注釈に書いてあった)。

           

           「八の九」の節の最初が「美禰子も三四郎……」とあるが、漱石は「一字サゲニセズ」と原稿用紙に書いている。おそらく、前の節からぐいぐいと続けて行くぞ!ということなんだろうけど、表現というのは、校正規則をまげてもいいんだよなということだろう。

           

           『お・は』は編集部の敏腕校正があるので、自分の駄文の修正はお任せしてある。漢字をひらがなにしたりするのは、『お・は』の習わしによって校正される。でも、「一字サゲニセズ」と私が書いたら、「何言ってるんですかぁぁぁ」と赤ペンが入ると思う、きっと。

           

           今日明日明後日と連休なのだが、草取りのまねごと意外には、ほとんど読み書きである。今年の夏の課題図書の「調査」(笑)と通読をしなければならない。私自身は、課題図書には「否定的」な考えしかないが、作品のできはまた別なのである。よんでみないと分からない。むろん、「すぐれた作品だ」という意見ばかりでなくてもかまわないが、「課題図書は明らかに、商売戦略で、結果的に、子どもに感想文を強要する」というところは断固反対である。

           

           仕事場は例によってクーラーもないので扇風機だけ。今日は、お昼過ぎに32度の室温だった。けれどなんだか凄く熱いとは感じない。風が通るからだろう。漱石三部作の読み直しだが、じっくりと、読んでみたい。

          • 0
            • -
            • -
            • -

            7月11日(火曜日)忙しさの正体:「いい学校」「よい教員」それ自体を問うことから

            • 2017.07.11 Tuesday
            • 21:34

             

             教育総研が『教職員の自己規制と多忙化研究委員会報告書』を発表した。かなりの量だが、第一章の総論(広瀬義徳さん)と第八章の教員が語る教員の多忙化(四方利明さん)の部分を読み、直接二人の話を聞く機会があった。

             

             広瀬さんと四方さんの話はとても興味深く面白かった。私自身が愛知県の現場で「勤務条件闘争」を仲間とやってきて、いろいろと感じ、考えてきたことが、ある意味「集成」されており、納得するばかりだった。

             

             学校の多忙を「精選」「厳選」などして時間的ゆとりがうまれるなんてのはどうしようもない話だ。ずーっと40年くらいアナウンスされてきたが、それがうまくいったためしはない。なぜなら、学校教員はみんな沢山の仕事を「必要」だと思ってやっているからだ。

             

             やめられるものなら、とっくに止めている。私自身もいわれた提出書類を出さなかったことがなんどもあるし、「提出義務があるのか、法的に説明せよ」と言って、首にならないなら出さないと言って拒否したことがある。だって、学級の子どもの世話の方が大変だったからだ。そんな書類を作っている暇はない。

             

             ただ、保護者がいろいろな説明責任を求めるようになってきて、無理難題を言う保護者もいないわけではないが、多くは、子どもかわいさでアカウンタビリティーを行使するのだ。だから、むげに断ることもできない。気持も分かる。だから、書類が増える。突っ込まれないような書類を作るから、そして重箱のすみつつき論争になるから、保護者も教師も、本質を忘れて、やりとりに夢中になり、疲れることがある。全部じゃないけど。

             

             だから、当然、多忙になる。それは、教師だけでなく、保護者も、行政も「必要だと思うこと」で忙しくなっているのだ。それを、だれかの責任だと言い始めると不毛な、自己満足的なやりとりになり、結局、子どもはどうすりゃいいの的になる。最悪なのは、教師や親のやりとりに巻き込まれ子どもが右往左往している状態だ。そりゃ、多忙になるだろう。

             

            だから、報告書を詳細に読めば分かるけど、「マイナスすることからはじめる」とか、「子どものためを問い直す」ところからやらないとだめなのだ。

             

             今回のような報告書が日教組から出るとすると、それはある意味画期的だと思う。「子どものため論」で多忙解消はできないということだ。「やりがい搾取」ループをどこかで断たなければと思う。

             

             「教員は忙しいから本を読めない」と良く言われる。でも、忙しいからなのか? 実は、読む必要を「強く」感じていないから読まないのではないのか。だってどうしても必要なことだったら、優先順位が高ければ、何をさておいても読むし、時間を何とか作るでしょう。それをしないのは、すでに多忙は無思考を再生産しているからだ。多分、暇でも読まないと思う。本だって、いろいろあるからね。仕事関係だけじゃない。

             

             多忙で、授業の準備ができなきゃ、授業しなきゃいいのだ……ほんとうはね。今は、最小限の準備でできる授業しかやっていないということかもしれない。子どものためとか授業の準備とかができないからだけで、多忙化が困るんじゃなくて、私は、仕事になんだか「余裕」「ゆとり」がないからいやなのだ。超勤で、自分の家庭生活や趣味や仕事以外のことができないのは、人間的じゃないから多忙はダメなのだ。『モモ』を再読してほしい。

             

             部活については、「趣味的部活」ならば学校でもいいけど、選手養成や競技中心、あるいはコンクール上位ねらいなら、学校と切り離すというのが一番良い。別の組織で、学校とは関わりなくやるのが一番良い。外部講師はやめたほうがいい。かえって教師が忙しくなる。やるなら、外部部活が一番良い。それで、教員がその指導がやりたければ、休暇取ってそこへ行って、思う存分やればいい。

             

             「総論」は秀逸だと思う。ま、ぼくが言うこと無いけど(笑)。みんな分かっていると思いますが。今までの、日教組や研究者の論文や報告にはなかった視点や根本的な指摘が、広く生かされるといいなと思いました。

             

            • 0
              • -
              • -
              • -

              6月19日(月曜日) 複雑な「物事」を安易に普遍化しないことについて

              • 2017.06.19 Monday
              • 18:09

               

               できるだけ優しい言葉で、できるだけ複雑で奥行きのあることを、私は、書こうとしてきた。複雑というのは、「物事」のもう一つの言い方なのだ。「物事」はすべて複雑なのだ。とりわけ人間と人間が関係していくところでおきる「物事」は複雑になる。この複雑を強引に取り去っていくことは、「物事」を理解することではなく、自分の身勝手な解釈を「正当化」することに過ぎないかもしれないという不安がある。

               

               だから、分かりやすい言葉で複雑な物事に向き合うタフさが私たちには必要なのだ。しかしながら、「物事」を考えようとすると、どうしても情報に偏りが出てくる。ある国がミサイルを打ち上げたり、核爆弾を一生懸命製造していることに眉をひそめるのだが、同時にそれを「危機」だと言って戦艦を近づけたり、仲間とこれみよがしに軍事訓練している国も、やはりその時期にミサイルを打ち上げていたりする、ま、かなり遠いところで。それは、なかなか報道されなかったりするし、だからといって、件の国がミサイルを打ち上げてもいいんじゃないかという話にはならない。でも、核を持つなという国が、核を持っていたりすることは、あまり大きなことにはならないようになっている。この「物事」はかなり複雑ではないか。

               

               学校で私の授業が終わると、子どもたちが黒板(正確にはフォワイトボードだけれど)の方へ来て、つまり、私の側に来て、いろいろと質問をする。授業の内容から理科の範囲の問いかけだけでなく、トイレでおしっこしているときに、となりをぞき込むような応えたくないプラーべートな質問もある。だが、一番困るのは学校への不満だ。むろん不満自体はそれほどたいしたことはないし、「それくらいはいいじゃないか、無視しなさい」ということが多い。だが、担任やその指導に対する不満だと、かなり「複雑な気持ち」になってしまう。

               

               私は、子どもや親から聞いた教員や学校の話で「ほうっておくとまずい」ということは、ほぼ本人に伝えてきた。もちろん、それが虚偽であるのか、真実なのか、あるいは偏った見方なのかは、そのときは分からない。しかし、そのときの教員や管理職の態度や雰囲気で「理解していないな」ということが分かることがおおい。

               

               賢明な対応ができる教員は少ない。つまり、「物事」は「複雑」なんだから、そういうとらえ方やそういう対応をする人もいるかもしれないということが分かっているかどうかなのだ。自分を非難してくる親や子どもに対して気分が良いはずがない。しかし、そういうネガティブな相手の対応は、自分と関係を切っているわけではないから、ていねいに自省することや、率直に話を交換することで、気持ちよく短時間でシャットダウンできる場合も多いのだ。国と国とのネガティブな関係よりよほどいい。

               

               体罰について意見を聞かれ、それがネットに上がったのだが、それほど問題にもされずにいる。私は大上段に構えて体罰はダメだとアピールしているワケではない。昨今の教員やコーチがメンバーを殴り飛ばしているようなものは、暴行とか喧嘩と言うべき場合が多くなっていて、これはまず無くならないだろうと思う。(正直、できるなら、子どもも殴りかえせばいいのにと思った。本来なら路上で起きるべきことだ。学校で起きること自体が、「先生、セコイよ」ということなのだが)つまり、暴行や喧嘩は、普通の人間の感情から起きてしまう、かなり野蛮だが分かりやすい「物事」だからだ。それなりに、結果として、両者がなんらかの社会的責任と義務を履行するしかない。

               

               だが、学校で起きている体罰という教育的ニュアンスを持つ(体罰は教育ではないという主張はさておいて)「物事」には、複雑さがある。だから、その複雑さに入り込まないで、距離を取ることで、まず、怒りを沈め(鎮め)てコントロールするのが一番良いのだと私は思った。子どもと教員・コーチの関係の調整や、教育的着地(そんなものがあるとするなら)を求めてはいけないと思ってきたのだ。

               

               私の周囲で起きた「ごく普通の教員」の体罰は、そのほとんどが、ある意味「真面目な教員」であった。自分のよかれと思っている主観的な思いが、子どもに理解されず、しかも、拒否あるいは否定されただけでなく、「バカじゃないのと見下された」(……ように思い込んだ)ときに起きた。

               

               また、そうでない「ちょっとおかしな教員」の場合の体罰は、「なぜ、私は、こんな暴力をふるってしまったのでしょうか?」というように、病的で神経症的なものだった。もう一種類は、習慣的に小さい頃から喧嘩で殴ることをたいしたことではないと思い育ち、それを身に付けてしまっている教員の体罰は、怒りがストレートで、相手が子どもであることが頭にない、「これでクビになるなら、上等だぁぁぁ」と常軌を逸する暴力であることが多い。私の場合は、経験的に、だいたい、「体罰」は、この三種類に分類して、自分の動きや対応を考えてきた。

               

               さて、「物事は複雑」なのであり、安易に普遍化をすることは、結局、「分かりやすい」という甘い毒まんじゅうを食らうことになるのかもしれない。たとえ、体罰であってもだ

              • 0
                • -
                • -
                • -

                6月17日(土曜日)「総理の意向」という「命令」:問題は「信頼」と「公正」なんだけどな

                • 2017.06.17 Saturday
                • 09:04

                 

                「総理のご意向」の問題は、「そんな大したことはない」「違法性はない」という考え方と、「重大だ」「特権の行使である」「不公正だ」という二つの側面からの意見がある。意見としては、いろいろあるんだろうけれど、これは、便宜供与の問題と権利の濫用の問題だと思う。

                 

                 私は、「違法じゃなければ何をやっても良い」と言う話は、二つの点でなかなか賛意を表せない。逆に、「違法だったら何をやってもダメだ」ということになるが、それは「テロ等準備罪法」や「治安維持法」につながり、逆に恐ろしい考え方にもなる。

                 

                 「多数決で何でも決める」のが民主主義だと教えてきた、あるいは、「通念」にしてしまった日本の民主主義の課題がある。違法か違法でないかは、単に最終的には法解釈(裁判判決)によるものでしかない。しかも、判決がなんでも絶対的に正しく妥当性があるわけではない。(教員の無給残業を支える「給特法」関連の裁判判決を見れば分かる)

                 

                 これに、お金が絡んでいれば問題は当然「違法で辞任」となるのだろう(これだって「違法」は金額の多寡によることも多い)。でも、お金が絡んでいないのなら(まあ、見た目だけれど)これくらいのことはいいんじゃないか……とも、私は思わない。便宜供与というのは「物品や金銭、あるいはなんらかの利益を与えて、特別の計らいをしてもらうこと」であり、その「計らい」の質と量で「違法性」を持つということになる。贈収賄などなど。なぜなら、与えられた方が「自主性」「独立性」「信用」を持てなくなるので、公共性から観て、不適切性が強いということになるからだ。

                 

                 今回の加計学園問題は、「総理のご意向」があったかなかったかという「存否」と、それがなんらかの利益など影響を与えたか与えなかったかという問題、それに伴って金品の授受があったかなかったかということが論点になるだろう。まだ三番目ははっきりしていないし、いまのところ出ていない。とりあえず二番目までが問題なのだ。

                 

                 「総理のご意向」とあったって、「そんなの関係ない」と法に則って仕事をすればいいのだという「世間論」「官邸の主張?」は、意見としてはそれほど間違っていない。官邸の言ってることは「法に則って」というより「手続きに則って」なんだけれど。だがしかし、そういう毅然とした仕事ができるかどうか、今回の「総理の意向」で、それが現実的で、可能だとは思えない。ましてや官公庁だ。「上司の命に従う」ことが原則とされている現場で、「黙示の命令」など山とある(教員はそれでブラックになっているのだから)。「黙っていても上司の意向に気を使えよ」という中で、無視・批判などできるとは思えない。だから問題なのだ。「総理の意向」を言った人間だって、効果があると思うから言っているのであって、独り言でもないだろう。

                 

                 おそらく行政行為には、微妙に「法律に則った不正」や「違法性のある特別権力関係論的な行為」は可能だということだ。獣医養成の大学ができることによって、多額の税金がここの大学教育のためにこれから投下されるのだから、それなりに慎重にかつ公正に、もちろん合法的に決めてもらわなくては困る。だから、今回のような、便宜供与や権利濫用が存在する、あるいは疑われるような「行政的手法」は避けなければならないと思うのだ。

                 

                 「違法だと証明されてないじゃないかとか、ただ言ってみただけで押し付けたわけでもない」……などという形式論による不正義は「信用の失墜」であり、通用しないと思うんだが。ま、現政権はそれが、めちゃ得意な困った、残念すぎる政権ということなのだ。はやく、辞めていただくことに越したことはない。

                 

                 前川 前事務次官については以前、中央公論の対談で「教育格差」について論じていたことを覚えている(切り抜いて保管してあった)。感想としては「文科省の人なのに、けっこうまともに論じているなあ」と思った。ちょっと意外だった。これは、私の文科省への偏見があったからかもしれないけど。人間性をどうこう言うほど知らないのだが、仕事はきちんとやりたい人なんだろうなとは思う。そんな匂いがした……。あくまで主観ですが。

                 

                *「いじめはなかった」と言ったけど、調べたら「ありました」という学校みたいなことがあるけど、なんだか内閣も同じなんだなと思ったら、この「国」はほんと困ったところにきているなあと胃が痛くなるくらい思う。

                • 0
                  • -
                  • -
                  • -

                  6月11日(日曜日)京都にて、『マチネの終わりに』を聴く 朗読会とギター演奏

                  • 2017.06.11 Sunday
                  • 23:09

                   小説家平野啓一郎さんとギタリスト福田進一さんのコラボが京都の国立近代美術館のロビー会場でひらかれた。で、行った。ネットで見付けてチケットを購入したのだが、最後の1枚だったことがあとで判明(笑)。こういうこともあるんだなと。

                   

                   『マチネの終わり』は、曰く「大人の恋愛」をテーマに書かれた小説で、正直、ぼくは好きだ。毎日新聞に連載小説として読んだときは、途中で「やめた」。進み方にいらいらして(笑)。だが、本になってから早々に購入して、一気に読んだ。平野さんの本はほとんど読んでいるし(『決壊』はお薦め)、エッセイもなかなかいい。

                   

                   生き方がしっかりしている女性が登場し、ヒロインになる恋の話はいつも感動するのだ。その恋は実らないことが多いのだが、それがまた人生なんだよなと思う。

                   

                   今日は、百人くらいの規模で、一時間、女性アナウンサーと平野さんで朗読をしながら、ところどころ、そこで取り上げられている曲を福田さんがギターで演奏するという、かなり贅沢な嗜好で正直、期待以上に楽しめた。小説のクライマックスのところの朗読のあとのギター演奏はとくに盛り上がり、臨場感があり、小説のシーンが想い出され、肩をふるわせている女性もいた。ぼくも泣きたかった。

                   

                   後半の三十分くらいのトークは、前半の余韻を残しながらも、平野さんの教養が染み渡るような分かりやすい話だった。この90分3000円は安かった。とにかく生平野さんと、福田さんのギターを生で聞けたことがよかった。CDもあるんだけどね。

                   

                   極めてタイトな日程だったが、なんとか鑑賞したくて頑張って行った甲斐があった。唯一、美術館が五時に閉まってしまい、6時半開始の、この催しまでの時間が退屈だった。喫茶店で時間をつぶしたけど。忙しいというか、慌ただしい毎日なんだから、たまにはこういうこともないといけないよなと……。

                   

                   

                  • 0
                    • -
                    • -
                    • -

                    6月7日(水曜日) 職場の活性化と、若いことと、歳を重ねること

                    • 2017.06.07 Wednesday
                    • 17:57

                     

                     若い先生とのつき合い方が難しく面倒になっているという相談をよく受ける。よく受けるというのは、何回くらい?ということもあるのだが、まあ、たびたび、いろいろな若くない人からの相談である。一般企業の中間管理職からも相談を受ける。普通の会社でも同じような悩みがあるのに驚く。

                     

                     「挨拶ができない」からはじまって、「仕事が雑」「わからないことを質問しない」「すぐむくれる」「返事はいいが何もしない」「プライベートなことを平気で職場に持ち込む」「服装や身だしなみに配慮がない」「先輩をタメと勘違いしている」「敬語が使えない」「電話応対が失礼極まりない」「管理職を無視している」「返事に比べて無責任」「返事もしないで報告もない」「すぐに言い訳をする」「なんでも自分一人でできると勘違いしている」「へんなプライドが満載だ」……と、コトの真偽はともかく、実際に具体的な場面で相当に困っている話を聞く。保護者からも。

                     

                     幸か不幸か、今現在ボク自身がすごく困っていないので、比較的のんきに聞いていられるけれど、毎日つき合っている相談者の悩みは深い。

                     

                     しかし、どうだろう、本当は、相談者だけでなく、若い人たちも「困っている」のではないか? その困り方は、ボクが若い頃のような困り方でなく、もっと複雑というか、僕らでは判断できない、推し量れない「難題」なのかもしれないなと思うことがある。

                     

                     自分や相談をしてくる「ある程度年齢を重ねている人」や「管理職、主任」くらいの人が、若かった頃に感じた「年上の教職員」への違和感や腹立ちとは、違うのだろう。

                     

                     ボクは新任時代から単純に、先輩教員と、非常に分かりやすくい、むかつくケンカをしていた。つまり、「いうことを聞け」「いやだ」の戦いである。ボクはやりたいことがはっきりしていて、それを妨げる「保守」「ことなかれ」の「年上教員」とケンカしていたのである。

                     

                     しかし、わからないことはたくさんあるから、平気で「教えてください」と質問したし、学校は、それはそれ、これはこれと進めていかなければならないことがたくさんあるので、口も聞きたくないほど怒れても、話をしなくなることは無かった。ケンカして仲良くなることは……けっこうあった(沢山はない)。意見は違っても仕事はできる。

                     

                     数日くらいは、お互いに口数は少なくなるが、すぐに日常がやってくるし、また、ケンカの種もまた、芽を出してくる。つまり、ケンカしていても、日常はけっこうコミュニケーションをとって仕事をすることができていた。主任はむかついただろうが。

                     

                     まあ、新任一ヶ月で、学年主任とケンカするボクのような教員も少ないだろうが、ケンカの原因は、教え方や子どもに関することであって、書類がおそいとか、配慮がないとか、連絡調整ができない……というようなコトではなかった。教員としての教育論や子ども論、人生論に発展していき、ついには、学年主任に「おまえは、おまえの、やりたい教育ができる学校を作れ!」と言われてしまったのだ(笑)。日の丸・君が代問題では、「ソ連(現ロシア)へ行け」(行きたくない国の一つで、たまらないなあ)と、意味不明なことまで言われた(笑)。

                     

                     つまり、若いことと年取ったことの対立は、保守・革新対立だったり、管理・自由の対立であった。少なくとも、最初に列記した困りごとのようなことは、問題にならないし、たとえ、挨拶がへたでも、一年もたてば、学んで行けた。逆に、管理職の横柄さに礼儀を要求したこともある。

                     

                     最近の、若い教師問題はボクらの若いときとは違うのだ。教え方や子どもの問題で他の教員とトラブルなど起きない。いや、そもそもボクが思っているような「若い人の教育論や人生論」なんて関係無いのかもしれない。ボクよりよっぽど、しっかりしているところだってある。そのことをきちんとアタマに置いておかないと、子どもを親が叱るようになってしまう。できれば、子どもが、親に逆らいながら反抗しつつ自立していってくれればいいのだが。

                     

                     ボクらは「なんで、こんなことがわからないのだ」と思うことで、苛立てばいいのだ。ときどき「何か悩んでいることはないかい?」と若い人に聞くが、そのとき「ありません」というか、「岡崎が尋ねているのだから、一応何か答えなくちゃなあ、何があるのかなぁー」と、「とりあえずの回答」を探していることも多いのだろうと思う。本当に困ったことを、相手に直接言えること自体が彼等にはとても困難なことなのかもしれないと思う。

                     

                     自分のことで精一杯のボクのような歳食った教員(時に、ベテランと揶揄される)ができるのは、彼等がエネルギーを落とさないように、給油的食事でもたまにごちそうすることくらいなのかな?と思ってしまうのだ、御礼を期待せずに(笑)。

                     

                     だが、部活が忙しいのでプライベートがないのですが……というような相談には、あまり乗れそうにない。なぜなら、「部活なんて辞めればいいじゃないか」に尽きるのだ。それができないのは、みんなにいい顔したんでしょとしか思えない。そんなことは言いたくないので言わないが、自分の仕事でもない、ボランティアが辞められない理由がぼくには分からない。ボランティアなんだから、校長も、保護者も子どもも「部活顧問をせよ!と、命じる権利なんてまったくない」のだ。仕事の余暇にやれよ!と言うしかないので、アドバイスにはならないらしい。

                     

                     しかし、最後に言っておかねばならない。一番最初に書いた、友人達の「若い教員への批判非難愚痴」は、実は、ボクにもあてはまるんじゃないかと、なぜか、ドキドキしながら聞くことがしばしばである、若くないんだけど(笑)。若者だからといって遠慮することはない。相手に気遣って仕事をするなんてつまらない。学校労働は孤独が基本なのである。「老教師は役立たず、黙って去るのみ」にあこがれる今日この頃。

                    • 0
                      • -
                      • -
                      • -

                      PR

                      calendar

                      S M T W T F S
                         1234
                      567891011
                      12131415161718
                      19202122232425
                      2627282930  
                      << November 2017 >>

                      selected entries

                      archives

                      recent comment

                      recommend

                      recommend

                      recommend

                      recommend

                      recommend

                      recommend

                      recommend

                      recommend

                      recommend

                      recommend

                      recommend

                      recommend

                      【送料無料】きみ、ひとを育む教師ならば
                      【送料無料】きみ、ひとを育む教師ならば (JUGEMレビュー »)
                      親が読んでもよく分かるように書きました。

                      recommend

                      recommend

                      links

                      profile

                      search this site.

                      others

                      mobile

                      qrcode

                      powered

                      無料ブログ作成サービス JUGEM