10月6日(日)教員の「働き方改革」の「効率重視」の行き止まりとジュリアロバーツ

  • 2019.10.05 Saturday
  • 23:23

 

 今、友人の赤田さんと教員の「働き方改革」の本を作っている(11月刊行予定)。何人もの新旧友人の教員(小学校、中学校、大学の教員など)に協力を頼んでムックを作っている。

 

 正直言うと、たくさんの「学校教員の働き方改革」についての本を読んだ。まぁ、中には、内容が予測できるので、チラ見して買っただけの本もある。ただ、ほぼ共通しているのは、「効率重視のマニュアル」だってことだ。マニュアルがいけないなんて全然想わない。だが、マニュアルは「効率」、時間短縮など費用対効果が優先される。効率が重視されても、仕事が減ると言うことはない。効率がよくなると、かえって、大事なものを失うことがある。他の・別の仕事が、かえって増えることも多い。

 

 小田嶋隆さんというコラムニストが「働き方改革は、一羽のニワトリに何個の卵を産ませるのかというタイプのお話だ。ニワトリの人生やニワトリの幸福についての話題ではない」と的を射た話をしている。ま、ボクらはニワトリじゃないから卵を産むかどうかは関係ないけど。人間は、たとえ効率よく仕事ができても、それが必ずしもいいことだとは限らないと想う。「効率」も慎重に考えて、行動にうつさないと、大切な「時間を必要とするプロセス」を失うこともある。

 

 「子どものため」という言葉もある。本当は、「子どものため」と「働き方改革」の関係は、たいした関係ではないはずだ。(「働き方改革」がどうあろうと、日常的には善かれ悪しかれ「子どものため」と教員は考えるものだ。)あえて言えば、関係ないと言っていい。ま、百歩譲って、関係が少しはあるとしても、関係をさせてしまうから「仕事が減らない」のだ。部活縮小に反対する教員達は、ほぼ声をそろえて「子どものため」と言う。いくら働き方改革であろうと子どものためなんだからな、バカヤロー(怒)!というわけだ。働き方改革と子どものためが対立しているのです。

 

 そもそも、政府が言う「働き方改革」は、1,長時間労働問題是正と 2,正規・非正規労働者の格差解消(同一労働同一賃金)の二点が重点なのだ。学校労働者にも当然、この二点に課題はある。どっちかというと仕事の中身は関係ないのだ。だから、長時間労働について言えば、「勤務時間を守ればいい」ということで、それほど難しくはない。時間が来たら仕事を置いて帰ればいいのだ。仕事が多ければ、雇用を増やせばいい。単純極まりない。余計な仕事をシェアすれば、雇用も増える。だが、学校の現場では、そういう働き方改革がうまく進まないのはなぜか。その根っこにあるのが「効率重視」と「子どものため」というイデオロギーがあるからだ。この二点について、しっかりと論じなければならない。批判検討すべきは、勤務時間を守らせない「子どものため」と仕事が減らない「効率重視」の二つのイデオロギーなのだ。

 

 「効率をいくらよくしても、仕事に余裕ができれば、その余裕の部分に、別の仕事を入れてもっと仕事を増量しなくてはならない」と言われる。でも、守るべき勤務時間は決められている。でも、効率を上げると、他の密度の高い仕事が挿入されて、今以上に内容の密度がきつくなってしまうのが現実の教育的労働だ。

 

 以前「プリントの印刷をボランティアとか補助的な人を雇って、誰かに頼むといいじゃないか」ということを言う人がいた。しかし、そうなれば、ボクが印刷機を回しながら、ボーッとしている時間が奪われる。困ったことに「その時間に、他のやるべきことができるじゃないか」という人がいるが、まさしく、そうやって余裕とか「すき間時間」を埋めていくことで、明らかに労働は過密になり、疲弊するのだとボクは想う。普通は、密度の濃い仕事には「休憩休息」が不可欠なのだ。それも0に等しいのが教員の現実だ。

 

 そんな状態でチーム学校なんてあり得ない。ほとんど冗談でしょうと言いたくなる。ボーッとした余裕があるからこそ、仲間が困っているのに気づくし、助けられる。相談にも気やすくのれる。

 

 ボクらに「働く権利」があるとすると、多分あると思うけど。でも、それは一生懸命やるという権利ではなく、仕事をどんどん密度濃く長時間にする権利ではなく、余裕を持って健康を維持し自分の生活を豊かにするために働くという権利なのだ。そんなことを考えている。

 

 色々と原稿で頭がぐちゃぐちゃになると映画を見たり、街へ出かける。文章を書くのは体力が必要で、ここ最近、締め切りに追われたり、『おそい・はやい・ひくい・たかい』の107号の仕上げに向けての付け加え対談や文章の整理で、ちょっと頭が混乱している。そういうときは、別の文化のミームを入れ込む(笑)。

 

 「悪魔の手鞠唄」は大好きな横溝正史の作品だけれど、最近BSで鑑賞した。石坂浩二主演なのだけれど、日本の推理サスペンスでは傑作だと想う。何度も見たり、原作本を読んだりした。本当にいろいろな伏線があって、すごく面白い。かなり横溝作品を読んできた、何度も読むけれど、そのたびに面白く読めるから、好きだ。新幹線の中や長距離バスで、横溝作品をよく読んできた。(しかし、最近のリメイクのテレビ版「悪魔が来たり手笛を吹く」はやめてほしかった。)

 

 そしてもう一つはポアロ。「地中海殺人事件」。これもおもしろかった。原題は「白昼の悪魔」だけど、これもアガサクリスティーの名作だと想う。原作の登場人物は、映画に比べれば、もうすこし性格描写を抑えてあるので想像力で楽しめるが、映画はいかにも的な表現の登場人物たちだ。役者によって、本当にいろいろな楽しみ方ができるなあと想う。ピーター・ユスチノフがポアロなんだけど、やはりボクはデヴィッド・スーシェがいい。ポアロシリーズは「オリエント急行殺人事件」がとてもいいと想うし、これはなんどもデヴィッド・スーシェのポアロで見ている。筋立てもしっかりとしていて、時間をうまくきっちりと組み立てている。それは、「悪魔の手鞠唄」にも似ている。

 

 そして、最後は「ノッティングヒルの恋人」(1999年)正直、ストーリーはベタな恋愛物語だけど、とてもいい。とくにジュリアロバーツの怒り出すシーンがとてもいいなあと想う。ジュリアロバーツは力づおい! 素朴な男と強い女の話はおもしろいよな。あくまで話としてだけど。

 

 

 

 

 

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    9月13日(金曜日)サービス労働と労働法

    • 2019.09.14 Saturday
    • 20:25

     

     最近、夜に開催される「労働法の講座」に出ている。昨日は、労働契約法と労働基準法との関係についてのレクチャーだった。労働契約法は最近の法律なので、けっこう知らないことも多くて、すごく勉強になった。また、いずれまとめなくてはならないと思う。判例を読むのは楽しい。

     

     ところで、学校での教員の仕事が「サービス労働」であるとボクは思っているのだけれど、「サービス労働」という言い方を不謹慎だとか、不適切だという人が多い。しかし、サービスはそれなりに、何かを作ったりするような他の仕事と同じように重要な労働だと思うのだ。多くの人にとって、何かしら、「サービス」というと、浅薄で、召使い的なイメージばかりなのだろう。

     

     でも、実際に介護職だって、看護師だって、医師だって サービス労働の営為なのだと思う。ある側面では感情労働でもある。つまり、れっきとした労働なんだから、当然のことだけど教員の仕事や立ち位置には「労働法」や「労働者」という概念が当てはまるわけだし、労働者以外ではない。

     

     で、まあ、できるだけ質のいいサービスを教員は求められているわけだけど、そこには「隷従」があるわけではない。そこを間違えると「公務員なら納税者の言うことを聞け!」みたいな稚拙で幼稚な論理になる。公務員であろうと一般企業の社員であろうと、奴隷労働はあり得ないわけで、それこそ憲法で第十八条にある「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」なのだ。

     

     憲法にあるから、日本では奴隷労働があってはならないわけだ。「言ってるだけ」憲法ではない。ここに書いてなければ、堂々と奴隷労働がまかり通るだろうし、だれも取り締まらないようになる。憲法のすごいところは、書いてあるだけでも、それなりに意味があるというところだ。「書いてあるぞ!」と意識することが重要なのだ。お守りではないけど、お守りっぽいことがある。

     

     働くってことは、労働者になるということで、とりわけ、公務員は二面性がはっきりする。でも、ほぼおなじように一般の会社員でも、二つの面がある。一つは公務員なら国家や行政、会社員なら社長の「命じたことを為すべき」という義務がある。だが一方で「社会的な正当性」「公共的市民が求める福祉に貢献する」という面がある。この二面が一致していればいいけれど、一致していなければ、かなりしっかりと考えなければならない。

     

     ちょっと昔なら、こういう問題を考える教員はわりといた。自分は教員で、「権力の手先」と「市民の味方」みたいな対立を一人の労働者として抱え込んでいると考えていた。今でも、この課題は無視できないし、ある程度まじめに考えるに値する……と思う。

     

     この矛盾した労働者のあり方をまず認めるのか認めないのか、あるいは無視するのか否定するのかという、面倒なことが、いつも問われていると思う。このあたりから教員も出発しないと、まじで「学習指導要領を生かす」みたいな発想をすんなりしてしまう。いやいや、学習指導要領なんて、いつの時代も文科省が無責任に「基準」として押しつけているじゃないの。しかも、反省も責任も取らずにさ! それを唯々諾々と従って良いのか?ということもある。

     

     かなり前、演劇家の竹内敏晴さんに、「教員は権力の走狗(そうく)である」などと断じられてしまったことがあった。「走狗」って「親分や支配者の手先」って意味だからね。けっこう、きついです。でも、今だって、学校の決まりはキマリだから守りましょう!って言ってるだけの教員はまさに「走狗」かもしれない。「上のいいなり」ってことだと思う。学校労働はそういう面もあるってことです。で、そういうときに、自分はどうするのかって考えなくちゃいけないだろうと思うのです、疲れますが。

     

     天白川を走っていると、中学生男子が数人たむろってて、「あ、理科の先生だ」「岡崎せんせいじゃん、なつかしいなあ」って言うので、まだ一年くらいしかたっていないのに懐かしいってか?? いいなあ、中身が詰まっているから、少し前のことでも懐かしく感じるんだよなとつくづく思うのであった。

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      9月4日(水曜日)道徳教育の不可解さ

      • 2019.09.04 Wednesday
      • 08:25

      イイカゲン、勘弁してほしい。教育改革はいつもアホなことばかりする。で、やっぱり、はじまると……

       

       道徳の授業がそんなに必要だろうかという思いはあるのだが、教師たちが色々な道徳の授業案を見せてくれて、授業の検討会などに出たりすると、いつも若干のむなしさが残る。

       

       新学習指導要領や解説本を読んでも、「だからなんなんだ!」と世界のまん中でなくて、職員室の片隅で叫びたくなる。最近、「自由ときまり」というテーマの授業について論議したのだが、「きまりを守った上で自由に考えたり行動したりする」という結論に導けるといいなぁぁと授業する教員が言うので、そもそも「きまり」ってなんですか? とたずねると議論が停止してしまった。まあその教員は、もともと思考が停止というか、かろうじて水面で思考しているわけだけど。「きまりはきまりです」というので笑ってしまう。

       

       自由が論議されるときは、自由を制約することの妥当性や是非が批判的に論じられなければ意味がない。子どもたちは「自由でいいですか?」とよく聞いてきた。私は、「自由は世界人権宣言にあるように人間の生まれながらの権利だからね。いいに決まってるんだ」と繰り返し話してきた。

       

       「自由とわがままは違いますよね」と若い教員が言うので、自由は「わがまま」に見えてしまうんだということを話した。「自由は他人に迷惑をかけてはいけないんですよね」とも言うので、そんなことはない、他者にとって迷惑でも自由を尊重しなければならないことは多いんだよと私は言う。ストもできない。デモもできない。文句も言えない。すると「それじゃあ、子どもに教えられないなあ」とあきれ顔でいうので、子どもと一緒に考えればいいじゃないかとすすめてみた。……ま、この程度です。

       

       学級の子どもたちに授業をし、生活指導し、学級活動をするなかで、教室を過ごしやすい居場所にするためには、「自由と個性」を「わがままとはみだし」と見なして、安易に断罪せずに、どうやって折り合いを付けるかというところが重要なのだ。

       

       そのためには、教師や保護者が今の社会問題や課題にどう向き合って、どう考えるかがかなり重要になる。感情むき出しのソーシャルネットワークや視聴率競争の産物としてのワイドショーの断片的な情報だけに左右されず、自分なりに勉強することが必要だ。それがないと子どもに向き合ったときに、おざなりの欠陥だらけの「きまり」「常識」をおしつけることになる。敏感な子どもたちは「まあ、学校だから、こういう答えを先生は期待して居るんだな」と察知する。

       

       芸術における表現の自由、常識や体制を批判する自由、そして、多数派とは違う考えを述べる自由、そうした自由が萎縮するとき社会は確実に劣化する。どっかのイベント批判で聞いたような「税金を使って、政治的な表現の自由を主張するのはいかがなものか」的主張は、浅薄すぎるが、いかがなものか。まあ、そう言っている人物も、貧相な政治屋らしいなあとは思う。

       

       学校の先生たちの自由とか平和とか個性は、めっちゃ狭い範囲の貧しいクオリティなんだなと思う。どんどん子どもたちは萎縮し、その結果、忖度人間を増産しているような気がしてならない。

       

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        8月3日(土曜日)湘南教組 教育研究集会参加 通知表ってなんだ??!!

        • 2019.08.10 Saturday
        • 17:23

         

        湘南教組の教育研究集会に参加した。「共同研究者」ということで、評価についての分科会だった。8月3日、ちょうど福島の子ども達の保養の最中だった。でも、湘南はボクの油の切れた頭をフル回転させてくれる仲間がいるので、行くことにした。

         

        午前4時半に起きて、身支度を調えて名古屋駅発6時半くらいの新幹線で新横浜、そこからJRで寒川駅に向かう。最近はご無沙汰のいとこが住んでいる。会場の小学校に行く途中で木幡さんにあって、相変わらずですねえという話をする。「内緒の話だけどさ」と、全く内緒にするつもりのない業界の話に花がさいた。木幡さんが元気なのは、本当にうれしい。ただ、飲み過ぎとラーメンの食べ過ぎには気を付けてほしいと、心から願っている。でも、そんなこと言うと「余計なお世話だ」って言われそうなので、ボクは黙っていた。

         

        午前中の分科会で九時半ぎりぎりに会場に到着した。伊藤書佳さんも同じ共同研究者なので、一緒に前に座って、三人の現職教員の実践報告と考察等々を聞く。意見の交換ももちろんある。

         

        実践報告された三人は本当に真面目に、今評価評定で、できることは何かという点で報告があった。肯定的にも否定的にもいろいろな面やいろいろな問題があるに決まっている。だから研究会をする意味がある。新しい指導要領や指導要録へどう対応するのかということも中心となる。ただ、もっときちんと現在の評価制度を批判をしても良いのではないかと思った。

         

        発表者の評価観・感も聞きたかった。

         

        ボクは評価については、基本的には学校・教員の一方的な権力行為だと思っているし、多分それは正しいはずだ。もちろん、歴史的にも政治学的にも学校そのものは国家の従順なる国民養成所(機関)であるし、時には兵士養成所だったり、経済戦士養成所だったりするわけだから、その中で評価すると言うことは国家の後ろ盾でもって教員が「ラベル貼り」をして、値踏みしているのだ。

         

        このことは、別にどうってことはない、当たり前のことで、それ以上でも以下でもない。だが、そこから出発しなければならないし、その枠組みとどう向き合うのか、向き合わないのかということだ。それは、即時的に子どもとの向き合い方に結びつくから、けっこう大事だと思う。その中で、子どもや親とベクトルの違う「人間としてどうあればいいのか?」を追求することが一番重要な教員の仕事だと思っている。どこにいても「矛盾を抱えて、理想と現実に磨きをかける」ということしかない。

         

        その上で、その批判や相対化の過程で、子どもや親と、民主主義やヒューマニズム、人権との緊張関係を持つところにに私たちはいるわけだ。

         

        だから、子ども達がやる気の出る通知票とか、相対評価とか、「目標に準拠した評価」とかいろいろと御託はあるんだろうけど、そしてボク自身も試行錯誤してきたけど、構造的にはみんな基盤はいっしょなのだ。だから、「よりよい評価」とか、「よりよい通知票」はそうした前提というか枠組みの中で試行錯誤とともにしか動いていかないのだ。

         

        こんな評価をしたら、教え方がまずいと言われて免職になったとか、こういう評価評定をすると国語の授業がやめになった、あるいは、こういう評価をしたら学校が義務制でなくなった……などということはないわけだ、今のところ。おそらく、凝集性の高い社会ほど、つまりファシズム国家、中央集権的国家、社会主義的国家ほど、学校で子どもを評価するときに、時代の権力者の言う「みんなのための社会の要請」を第一に考えるだろう。

         

        人間として素で子どもとつながり、対のコミュニケーションを大切にしようとか思ったら、多分、今のような評価評定をしないことだと思う。つまり結果的にはクビになったり処分を受けるということになる可能性は強い。それは1970年前後の通知票一律評価、評定拒否の闘いの歴史を見れば分かる。 

         

        おそらく、教員の皆さんの中には、そんなこと言っていまさら無理という人もいるだろうし、ボクだってそこまではやらなかった、やれなかった。当時は「5」が何人とかいう相対評価を拒否したり、できるだけ子どもを励まし、教科に特化しない二枚目の通知票というものを、「そんなもの書くな」と言う管理職といがみ合い(笑)ながら、作ったりする程度のことしかできなかった。

         

        もし、評価があるとしたらせいぜい、反省と自戒をこめた自己評価と、もう一つは相互評価しかないだろうと思う。子どもと教員がそれぞれ自分はどうだったろう?とか、お互いを評価しながら、これからどうしようかというけっこう人間的な曖昧さを含めたその場その場での意見交換だ。極めてゆるい評価評定になる方がましということになる。

         

        真面目に評価論を考えていったら、矛盾のるつぼになる。とりわけ現場ではそういう矛盾や混乱ばかりだろう。すっきり評価評定をしている教員がいたら、会っていろいろと聴きたいものだ。ボクは、ずーーーーと矛盾の中で評価していた。評価規準や評価基準って妥当性があるのか? いや、そもそもあれって日本語としてどうよ……??

         

        色々出ている評価教育本の新しいものをいくつか読んでみたが、昔と全然変わっていないなあと思う。コンピテンシーだとか「主体的に学習に取り組む態度」とかいってるけど、そんなこと数値や記号化や短い文章(所見)で表せるものなんだろうか?どの本を読んでもPDCAを子ども自体にもやらせようって話が中心になっているのかな?と思った。

         

        今の文科省や教育研究者たちのきめ細かな評価評定や行き届いた評価の範囲の論議中で、よりましな通知票をつくるのか、それともそれらの限界や問題点をはっきりさせ、しかも通知票の呪縛を意識して、はみ出した関係性を子どもや親とどうつくるのか、記録するのかしないのか……そのあたりで自分のやってきたことを慎ましく論じてみたい。

         

        もし、こんど評価論を論議するなら、ぼくもレジュメを出して参加したいなと思った。

         

         

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          7月29日(月曜日) 労使トラブルの講座:結局「損得」でなく「良識」と「知性」なんだ

          • 2019.07.29 Monday
          • 20:27

           

           7月25日に午前午後と「労使トラブル予防:基礎知識と実務対応」という法律を学んだ。朝の10時から午後4時半まで昼食一時間をはさんで講座にでかけ、弁護士のレクチャーを受けた。ときどき判例を読んだり、法律の本を読んだりしないと、頭のたがが緩むような気がする。もう歳だから。判例を読んだり、法律書を読んでいると、なぜだか、頭がすっきりする。

           

           いろいろと事例・事件が示され、その対処法について学ぶ。民法と労基法の基本を学びながら、雇用者の立場から「トラブル」にどう対応したらいいのかということを教えてくれる。この講座は「人事労務担当者が知っておくべき」という趣旨なので、参加者は100人くらいいたけど、いろいろな企業や会社の人事担当なんだろうなあと思った。労基法については、ボクもけっこう詳しいのだが、おさらいの意味で勉強になる。

           

           遅刻や勤務時間外の取り扱い、セクハラ&パワハラなどの対処と予防方法、解雇の正しい方法など、法律に照らし合わせてきちんと説明する。講師の弁護士は「私は、会社側の弁護したり会社側から相談されることが多いのですが、決して会社側の味方ばかりをしているわけではないのです」という。まあ、そうかな、わかんないけど(笑)。

           

           労基法と民法との関連も詳しく教えてもらった。で、おもしろかったのが、「どんな相手でも、予断と偏見で、断定的な意見を言ってはいけません。ちゃんとよく聞いて、『きちんと調査する』と言うべきです」といい、特にセクハラとそうでないところの境界線は難しいことや、パワハラと指導との判断も難しいという。確かにそうだろうと思う。だが、「信頼関係があれば」ということでもないと。

           

           信頼関係というのは、はなはだ曖昧で、自分の都合の良いことを言ってくれる人を「信頼できる」なんてことを言う人も多い。とんでもない話だ。できるだけ客観的になろうとすることは大切なことだ。しかし、人間のやることだから、そんな計算通りにはいかない。法律は結局、「解釈」の正当性や正統性で検証される。しかも、裁判の経験上、争いになると「社会通念」も重要になる。

           

           懲戒などは、この社会通念上どうよ……というところである。例えば、教員の場合、飲酒運転はかなり厳しい、飲酒で人身事故となるとアウトである。ただ、教員は「信用失墜行為」で処分解雇というのがある。体罰も「いきすぎた指導」なのか「暴行」なのかはけっこう線引きが難しい。

           

           それから、最後に「職場のダブル不倫」は、会社に損害を与えない限り、会社としては個人の私的行為なので無視すれば良いということらしい。ただ、どちらかがストーカーになった場合、相手の配偶者から電話が頻繁で業務に支障ができるような場合は問題になる。そういう会社の運営に支障をきたすことが多いときは、「きちんと対応しなければならない」という。なるほど。学校も、子どもが学区のスーパーで万引きしても、学校は動く必要はないというのが法にかなっている。まあ、そうだろうね。学校の行事や活動の一環だったら、時間外や学区外でも無視はできず、関係は切れないというのが「通説」だ。

           

           お昼は、デニーズでランチ。「これがおいしいですよ」って店の人が指さすので、それを頼んだ。運ばれてきて、おいしそうだなぁ、ランチにしてはいいなと思って、レシートを見たら1400円もする。ランチだったらもう少し安いのにしたかったなと、ちょっと反省。

           

           講座の最後に、講師の若い弁護士が「みなさん、私の話は、お役にたったでしょうか? 職場でまた参考にしてください」と言う。ボクはどこで生かすのか???

           

           

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