7月14日(土曜日) 段落の最初の行でも一字サゲニセズ『三四郎』

  • 2017.07.15 Saturday
  • 21:00

 

 ここ数日は、熱中症でもないが頭が痛くなることもあるが、熱いのはさほど気にならない。気に障ることはいくつかあるけれど、多分、年のせいだろうと思う。

 

 原稿をいくつか書いているが、連載を含めて題材にことかかないのは、自分の頭が学校化?されているかもしれないからだろうなと自覚している。学校、子ども、保護者、教育、教員、ほんとうに、面倒なコトがいろいろあるんだなと思う。

 

 書き物はパソコンのワードで書いているが、ご親切に不適切な、あるいは間違っていると赤いアンダーラインをつけてくれる。しかしながら、直さなくてもいいようなところに、アンダーラインが引かれていると、ちょっとムッとして、悲しい。

 

 ちょっと話は変わるが、今日『三四郎』を読み終わった。何度読んだか分からないが、夏が近づいてくると読みたくなる。で、漱石は毎回発見がある。内容については、私自身たいした読解力もないので、書かない。新しい発見があった。段落や節のはじめは、たいていひとマスさげるのだけれど、節・段落の最初なのに一箇所さがっていないところがあったので、印刷ミスか?と思ったが、それは、漱石の指示であった(注釈に書いてあった)。

 

 「八の九」の節の最初が「美禰子も三四郎……」とあるが、漱石は「一字サゲニセズ」と原稿用紙に書いている。おそらく、前の節からぐいぐいと続けて行くぞ!ということなんだろうけど、表現というのは、校正規則をまげてもいいんだよなということだろう。

 

 『お・は』は編集部の敏腕校正があるので、自分の駄文の修正はお任せしてある。漢字をひらがなにしたりするのは、『お・は』の習わしによって校正される。でも、「一字サゲニセズ」と私が書いたら、「何言ってるんですかぁぁぁ」と赤ペンが入ると思う、きっと。

 

 今日明日明後日と連休なのだが、草取りのまねごと意外には、ほとんど読み書きである。今年の夏の課題図書の「調査」(笑)と通読をしなければならない。私自身は、課題図書には「否定的」な考えしかないが、作品のできはまた別なのである。よんでみないと分からない。むろん、「すぐれた作品だ」という意見ばかりでなくてもかまわないが、「課題図書は明らかに、商売戦略で、結果的に、子どもに感想文を強要する」というところは断固反対である。

 

 仕事場は例によってクーラーもないので扇風機だけ。今日は、お昼過ぎに32度の室温だった。けれどなんだか凄く熱いとは感じない。風が通るからだろう。漱石三部作の読み直しだが、じっくりと、読んでみたい。

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    7月11日(火曜日)忙しさの正体:「いい学校」「よい教員」それ自体を問うことから

    • 2017.07.11 Tuesday
    • 21:34

     

     教育総研が『教職員の自己規制と多忙化研究委員会報告書』を発表した。かなりの量だが、第一章の総論(広瀬義徳さん)と第八章の教員が語る教員の多忙化(四方利明さん)の部分を読み、直接二人の話を聞く機会があった。

     

     広瀬さんと四方さんの話はとても興味深く面白かった。私自身が愛知県の現場で「勤務条件闘争」を仲間とやってきて、いろいろと感じ、考えてきたことが、ある意味「集成」されており、納得するばかりだった。

     

     学校の多忙を「精選」「厳選」などして時間的ゆとりがうまれるなんてのはどうしようもない話だ。ずーっと40年くらいアナウンスされてきたが、それがうまくいったためしはない。なぜなら、学校教員はみんな沢山の仕事を「必要」だと思ってやっているからだ。

     

     やめられるものなら、とっくに止めている。私自身もいわれた提出書類を出さなかったことがなんどもあるし、「提出義務があるのか、法的に説明せよ」と言って、首にならないなら出さないと言って拒否したことがある。だって、学級の子どもの世話の方が大変だったからだ。そんな書類を作っている暇はない。

     

     ただ、保護者がいろいろな説明責任を求めるようになってきて、無理難題を言う保護者もいないわけではないが、多くは、子どもかわいさでアカウンタビリティーを行使するのだ。だから、むげに断ることもできない。気持も分かる。だから、書類が増える。突っ込まれないような書類を作るから、そして重箱のすみつつき論争になるから、保護者も教師も、本質を忘れて、やりとりに夢中になり、疲れることがある。全部じゃないけど。

     

     だから、当然、多忙になる。それは、教師だけでなく、保護者も、行政も「必要だと思うこと」で忙しくなっているのだ。それを、だれかの責任だと言い始めると不毛な、自己満足的なやりとりになり、結局、子どもはどうすりゃいいの的になる。最悪なのは、教師や親のやりとりに巻き込まれ子どもが右往左往している状態だ。そりゃ、多忙になるだろう。

     

    だから、報告書を詳細に読めば分かるけど、「マイナスすることからはじめる」とか、「子どものためを問い直す」ところからやらないとだめなのだ。

     

     今回のような報告書が日教組から出るとすると、それはある意味画期的だと思う。「子どものため論」で多忙解消はできないということだ。「やりがい搾取」ループをどこかで断たなければと思う。

     

     「教員は忙しいから本を読めない」と良く言われる。でも、忙しいからなのか? 実は、読む必要を「強く」感じていないから読まないのではないのか。だってどうしても必要なことだったら、優先順位が高ければ、何をさておいても読むし、時間を何とか作るでしょう。それをしないのは、すでに多忙は無思考を再生産しているからだ。多分、暇でも読まないと思う。本だって、いろいろあるからね。仕事関係だけじゃない。

     

     多忙で、授業の準備ができなきゃ、授業しなきゃいいのだ……ほんとうはね。今は、最小限の準備でできる授業しかやっていないということかもしれない。子どものためとか授業の準備とかができないからだけで、多忙化が困るんじゃなくて、私は、仕事になんだか「余裕」「ゆとり」がないからいやなのだ。超勤で、自分の家庭生活や趣味や仕事以外のことができないのは、人間的じゃないから多忙はダメなのだ。『モモ』を再読してほしい。

     

     部活については、「趣味的部活」ならば学校でもいいけど、選手養成や競技中心、あるいはコンクール上位ねらいなら、学校と切り離すというのが一番良い。別の組織で、学校とは関わりなくやるのが一番良い。外部講師はやめたほうがいい。かえって教師が忙しくなる。やるなら、外部部活が一番良い。それで、教員がその指導がやりたければ、休暇取ってそこへ行って、思う存分やればいい。

     

     「総論」は秀逸だと思う。ま、ぼくが言うこと無いけど(笑)。みんな分かっていると思いますが。今までの、日教組や研究者の論文や報告にはなかった視点や根本的な指摘が、広く生かされるといいなと思いました。

     

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      6月19日(月曜日) 複雑な「物事」を安易に普遍化しないことについて

      • 2017.06.19 Monday
      • 18:09

       

       できるだけ優しい言葉で、できるだけ複雑で奥行きのあることを、私は、書こうとしてきた。複雑というのは、「物事」のもう一つの言い方なのだ。「物事」はすべて複雑なのだ。とりわけ人間と人間が関係していくところでおきる「物事」は複雑になる。この複雑を強引に取り去っていくことは、「物事」を理解することではなく、自分の身勝手な解釈を「正当化」することに過ぎないかもしれないという不安がある。

       

       だから、分かりやすい言葉で複雑な物事に向き合うタフさが私たちには必要なのだ。しかしながら、「物事」を考えようとすると、どうしても情報に偏りが出てくる。ある国がミサイルを打ち上げたり、核爆弾を一生懸命製造していることに眉をひそめるのだが、同時にそれを「危機」だと言って戦艦を近づけたり、仲間とこれみよがしに軍事訓練している国も、やはりその時期にミサイルを打ち上げていたりする、ま、かなり遠いところで。それは、なかなか報道されなかったりするし、だからといって、件の国がミサイルを打ち上げてもいいんじゃないかという話にはならない。でも、核を持つなという国が、核を持っていたりすることは、あまり大きなことにはならないようになっている。この「物事」はかなり複雑ではないか。

       

       学校で私の授業が終わると、子どもたちが黒板(正確にはフォワイトボードだけれど)の方へ来て、つまり、私の側に来て、いろいろと質問をする。授業の内容から理科の範囲の問いかけだけでなく、トイレでおしっこしているときに、となりをぞき込むような応えたくないプラーべートな質問もある。だが、一番困るのは学校への不満だ。むろん不満自体はそれほどたいしたことはないし、「それくらいはいいじゃないか、無視しなさい」ということが多い。だが、担任やその指導に対する不満だと、かなり「複雑な気持ち」になってしまう。

       

       私は、子どもや親から聞いた教員や学校の話で「ほうっておくとまずい」ということは、ほぼ本人に伝えてきた。もちろん、それが虚偽であるのか、真実なのか、あるいは偏った見方なのかは、そのときは分からない。しかし、そのときの教員や管理職の態度や雰囲気で「理解していないな」ということが分かることがおおい。

       

       賢明な対応ができる教員は少ない。つまり、「物事」は「複雑」なんだから、そういうとらえ方やそういう対応をする人もいるかもしれないということが分かっているかどうかなのだ。自分を非難してくる親や子どもに対して気分が良いはずがない。しかし、そういうネガティブな相手の対応は、自分と関係を切っているわけではないから、ていねいに自省することや、率直に話を交換することで、気持ちよく短時間でシャットダウンできる場合も多いのだ。国と国とのネガティブな関係よりよほどいい。

       

       体罰について意見を聞かれ、それがネットに上がったのだが、それほど問題にもされずにいる。私は大上段に構えて体罰はダメだとアピールしているワケではない。昨今の教員やコーチがメンバーを殴り飛ばしているようなものは、暴行とか喧嘩と言うべき場合が多くなっていて、これはまず無くならないだろうと思う。(正直、できるなら、子どもも殴りかえせばいいのにと思った。本来なら路上で起きるべきことだ。学校で起きること自体が、「先生、セコイよ」ということなのだが)つまり、暴行や喧嘩は、普通の人間の感情から起きてしまう、かなり野蛮だが分かりやすい「物事」だからだ。それなりに、結果として、両者がなんらかの社会的責任と義務を履行するしかない。

       

       だが、学校で起きている体罰という教育的ニュアンスを持つ(体罰は教育ではないという主張はさておいて)「物事」には、複雑さがある。だから、その複雑さに入り込まないで、距離を取ることで、まず、怒りを沈め(鎮め)てコントロールするのが一番良いのだと私は思った。子どもと教員・コーチの関係の調整や、教育的着地(そんなものがあるとするなら)を求めてはいけないと思ってきたのだ。

       

       私の周囲で起きた「ごく普通の教員」の体罰は、そのほとんどが、ある意味「真面目な教員」であった。自分のよかれと思っている主観的な思いが、子どもに理解されず、しかも、拒否あるいは否定されただけでなく、「バカじゃないのと見下された」(……ように思い込んだ)ときに起きた。

       

       また、そうでない「ちょっとおかしな教員」の場合の体罰は、「なぜ、私は、こんな暴力をふるってしまったのでしょうか?」というように、病的で神経症的なものだった。もう一種類は、習慣的に小さい頃から喧嘩で殴ることをたいしたことではないと思い育ち、それを身に付けてしまっている教員の体罰は、怒りがストレートで、相手が子どもであることが頭にない、「これでクビになるなら、上等だぁぁぁ」と常軌を逸する暴力であることが多い。私の場合は、経験的に、だいたい、「体罰」は、この三種類に分類して、自分の動きや対応を考えてきた。

       

       さて、「物事は複雑」なのであり、安易に普遍化をすることは、結局、「分かりやすい」という甘い毒まんじゅうを食らうことになるのかもしれない。たとえ、体罰であってもだ

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        6月17日(土曜日)「総理の意向」という「命令」:問題は「信頼」と「公正」なんだけどな

        • 2017.06.17 Saturday
        • 09:04

         

        「総理のご意向」の問題は、「そんな大したことはない」「違法性はない」という考え方と、「重大だ」「特権の行使である」「不公正だ」という二つの側面からの意見がある。意見としては、いろいろあるんだろうけれど、これは、便宜供与の問題と権利の濫用の問題だと思う。

         

         私は、「違法じゃなければ何をやっても良い」と言う話は、二つの点でなかなか賛意を表せない。逆に、「違法だったら何をやってもダメだ」ということになるが、それは「テロ等準備罪法」や「治安維持法」につながり、逆に恐ろしい考え方にもなる。

         

         「多数決で何でも決める」のが民主主義だと教えてきた、あるいは、「通念」にしてしまった日本の民主主義の課題がある。違法か違法でないかは、単に最終的には法解釈(裁判判決)によるものでしかない。しかも、判決がなんでも絶対的に正しく妥当性があるわけではない。(教員の無給残業を支える「給特法」関連の裁判判決を見れば分かる)

         

         これに、お金が絡んでいれば問題は当然「違法で辞任」となるのだろう(これだって「違法」は金額の多寡によることも多い)。でも、お金が絡んでいないのなら(まあ、見た目だけれど)これくらいのことはいいんじゃないか……とも、私は思わない。便宜供与というのは「物品や金銭、あるいはなんらかの利益を与えて、特別の計らいをしてもらうこと」であり、その「計らい」の質と量で「違法性」を持つということになる。贈収賄などなど。なぜなら、与えられた方が「自主性」「独立性」「信用」を持てなくなるので、公共性から観て、不適切性が強いということになるからだ。

         

         今回の加計学園問題は、「総理のご意向」があったかなかったかという「存否」と、それがなんらかの利益など影響を与えたか与えなかったかという問題、それに伴って金品の授受があったかなかったかということが論点になるだろう。まだ三番目ははっきりしていないし、いまのところ出ていない。とりあえず二番目までが問題なのだ。

         

         「総理のご意向」とあったって、「そんなの関係ない」と法に則って仕事をすればいいのだという「世間論」「官邸の主張?」は、意見としてはそれほど間違っていない。官邸の言ってることは「法に則って」というより「手続きに則って」なんだけれど。だがしかし、そういう毅然とした仕事ができるかどうか、今回の「総理の意向」で、それが現実的で、可能だとは思えない。ましてや官公庁だ。「上司の命に従う」ことが原則とされている現場で、「黙示の命令」など山とある(教員はそれでブラックになっているのだから)。「黙っていても上司の意向に気を使えよ」という中で、無視・批判などできるとは思えない。だから問題なのだ。「総理の意向」を言った人間だって、効果があると思うから言っているのであって、独り言でもないだろう。

         

         おそらく行政行為には、微妙に「法律に則った不正」や「違法性のある特別権力関係論的な行為」は可能だということだ。獣医養成の大学ができることによって、多額の税金がここの大学教育のためにこれから投下されるのだから、それなりに慎重にかつ公正に、もちろん合法的に決めてもらわなくては困る。だから、今回のような、便宜供与や権利濫用が存在する、あるいは疑われるような「行政的手法」は避けなければならないと思うのだ。

         

         「違法だと証明されてないじゃないかとか、ただ言ってみただけで押し付けたわけでもない」……などという形式論による不正義は「信用の失墜」であり、通用しないと思うんだが。ま、現政権はそれが、めちゃ得意な困った、残念すぎる政権ということなのだ。はやく、辞めていただくことに越したことはない。

         

         前川 前事務次官については以前、中央公論の対談で「教育格差」について論じていたことを覚えている(切り抜いて保管してあった)。感想としては「文科省の人なのに、けっこうまともに論じているなあ」と思った。ちょっと意外だった。これは、私の文科省への偏見があったからかもしれないけど。人間性をどうこう言うほど知らないのだが、仕事はきちんとやりたい人なんだろうなとは思う。そんな匂いがした……。あくまで主観ですが。

         

        *「いじめはなかった」と言ったけど、調べたら「ありました」という学校みたいなことがあるけど、なんだか内閣も同じなんだなと思ったら、この「国」はほんと困ったところにきているなあと胃が痛くなるくらい思う。

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          6月11日(日曜日)京都にて、『マチネの終わりに』を聴く 朗読会とギター演奏

          • 2017.06.11 Sunday
          • 23:09

           小説家平野啓一郎さんとギタリスト福田進一さんのコラボが京都の国立近代美術館のロビー会場でひらかれた。で、行った。ネットで見付けてチケットを購入したのだが、最後の1枚だったことがあとで判明(笑)。こういうこともあるんだなと。

           

           『マチネの終わり』は、曰く「大人の恋愛」をテーマに書かれた小説で、正直、ぼくは好きだ。毎日新聞に連載小説として読んだときは、途中で「やめた」。進み方にいらいらして(笑)。だが、本になってから早々に購入して、一気に読んだ。平野さんの本はほとんど読んでいるし(『決壊』はお薦め)、エッセイもなかなかいい。

           

           生き方がしっかりしている女性が登場し、ヒロインになる恋の話はいつも感動するのだ。その恋は実らないことが多いのだが、それがまた人生なんだよなと思う。

           

           今日は、百人くらいの規模で、一時間、女性アナウンサーと平野さんで朗読をしながら、ところどころ、そこで取り上げられている曲を福田さんがギターで演奏するという、かなり贅沢な嗜好で正直、期待以上に楽しめた。小説のクライマックスのところの朗読のあとのギター演奏はとくに盛り上がり、臨場感があり、小説のシーンが想い出され、肩をふるわせている女性もいた。ぼくも泣きたかった。

           

           後半の三十分くらいのトークは、前半の余韻を残しながらも、平野さんの教養が染み渡るような分かりやすい話だった。この90分3000円は安かった。とにかく生平野さんと、福田さんのギターを生で聞けたことがよかった。CDもあるんだけどね。

           

           極めてタイトな日程だったが、なんとか鑑賞したくて頑張って行った甲斐があった。唯一、美術館が五時に閉まってしまい、6時半開始の、この催しまでの時間が退屈だった。喫茶店で時間をつぶしたけど。忙しいというか、慌ただしい毎日なんだから、たまにはこういうこともないといけないよなと……。

           

           

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            6月7日(水曜日) 職場の活性化と、若いことと、歳を重ねること

            • 2017.06.07 Wednesday
            • 17:57

             

             若い先生とのつき合い方が難しく面倒になっているという相談をよく受ける。よく受けるというのは、何回くらい?ということもあるのだが、まあ、たびたび、いろいろな若くない人からの相談である。一般企業の中間管理職からも相談を受ける。普通の会社でも同じような悩みがあるのに驚く。

             

             「挨拶ができない」からはじまって、「仕事が雑」「わからないことを質問しない」「すぐむくれる」「返事はいいが何もしない」「プライベートなことを平気で職場に持ち込む」「服装や身だしなみに配慮がない」「先輩をタメと勘違いしている」「敬語が使えない」「電話応対が失礼極まりない」「管理職を無視している」「返事に比べて無責任」「返事もしないで報告もない」「すぐに言い訳をする」「なんでも自分一人でできると勘違いしている」「へんなプライドが満載だ」……と、コトの真偽はともかく、実際に具体的な場面で相当に困っている話を聞く。保護者からも。

             

             幸か不幸か、今現在ボク自身がすごく困っていないので、比較的のんきに聞いていられるけれど、毎日つき合っている相談者の悩みは深い。

             

             しかし、どうだろう、本当は、相談者だけでなく、若い人たちも「困っている」のではないか? その困り方は、ボクが若い頃のような困り方でなく、もっと複雑というか、僕らでは判断できない、推し量れない「難題」なのかもしれないなと思うことがある。

             

             自分や相談をしてくる「ある程度年齢を重ねている人」や「管理職、主任」くらいの人が、若かった頃に感じた「年上の教職員」への違和感や腹立ちとは、違うのだろう。

             

             ボクは新任時代から単純に、先輩教員と、非常に分かりやすくい、むかつくケンカをしていた。つまり、「いうことを聞け」「いやだ」の戦いである。ボクはやりたいことがはっきりしていて、それを妨げる「保守」「ことなかれ」の「年上教員」とケンカしていたのである。

             

             しかし、わからないことはたくさんあるから、平気で「教えてください」と質問したし、学校は、それはそれ、これはこれと進めていかなければならないことがたくさんあるので、口も聞きたくないほど怒れても、話をしなくなることは無かった。ケンカして仲良くなることは……けっこうあった(沢山はない)。意見は違っても仕事はできる。

             

             数日くらいは、お互いに口数は少なくなるが、すぐに日常がやってくるし、また、ケンカの種もまた、芽を出してくる。つまり、ケンカしていても、日常はけっこうコミュニケーションをとって仕事をすることができていた。主任はむかついただろうが。

             

             まあ、新任一ヶ月で、学年主任とケンカするボクのような教員も少ないだろうが、ケンカの原因は、教え方や子どもに関することであって、書類がおそいとか、配慮がないとか、連絡調整ができない……というようなコトではなかった。教員としての教育論や子ども論、人生論に発展していき、ついには、学年主任に「おまえは、おまえの、やりたい教育ができる学校を作れ!」と言われてしまったのだ(笑)。日の丸・君が代問題では、「ソ連(現ロシア)へ行け」(行きたくない国の一つで、たまらないなあ)と、意味不明なことまで言われた(笑)。

             

             つまり、若いことと年取ったことの対立は、保守・革新対立だったり、管理・自由の対立であった。少なくとも、最初に列記した困りごとのようなことは、問題にならないし、たとえ、挨拶がへたでも、一年もたてば、学んで行けた。逆に、管理職の横柄さに礼儀を要求したこともある。

             

             最近の、若い教師問題はボクらの若いときとは違うのだ。教え方や子どもの問題で他の教員とトラブルなど起きない。いや、そもそもボクが思っているような「若い人の教育論や人生論」なんて関係無いのかもしれない。ボクよりよっぽど、しっかりしているところだってある。そのことをきちんとアタマに置いておかないと、子どもを親が叱るようになってしまう。できれば、子どもが、親に逆らいながら反抗しつつ自立していってくれればいいのだが。

             

             ボクらは「なんで、こんなことがわからないのだ」と思うことで、苛立てばいいのだ。ときどき「何か悩んでいることはないかい?」と若い人に聞くが、そのとき「ありません」というか、「岡崎が尋ねているのだから、一応何か答えなくちゃなあ、何があるのかなぁー」と、「とりあえずの回答」を探していることも多いのだろうと思う。本当に困ったことを、相手に直接言えること自体が彼等にはとても困難なことなのかもしれないと思う。

             

             自分のことで精一杯のボクのような歳食った教員(時に、ベテランと揶揄される)ができるのは、彼等がエネルギーを落とさないように、給油的食事でもたまにごちそうすることくらいなのかな?と思ってしまうのだ、御礼を期待せずに(笑)。

             

             だが、部活が忙しいのでプライベートがないのですが……というような相談には、あまり乗れそうにない。なぜなら、「部活なんて辞めればいいじゃないか」に尽きるのだ。それができないのは、みんなにいい顔したんでしょとしか思えない。そんなことは言いたくないので言わないが、自分の仕事でもない、ボランティアが辞められない理由がぼくには分からない。ボランティアなんだから、校長も、保護者も子どもも「部活顧問をせよ!と、命じる権利なんてまったくない」のだ。仕事の余暇にやれよ!と言うしかないので、アドバイスにはならないらしい。

             

             しかし、最後に言っておかねばならない。一番最初に書いた、友人達の「若い教員への批判非難愚痴」は、実は、ボクにもあてはまるんじゃないかと、なぜか、ドキドキしながら聞くことがしばしばである、若くないんだけど(笑)。若者だからといって遠慮することはない。相手に気遣って仕事をするなんてつまらない。学校労働は孤独が基本なのである。「老教師は役立たず、黙って去るのみ」にあこがれる今日この頃。

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              5月26日(金曜日)自律的に働くということ「教育サボタージュ論(上)」

              • 2017.05.27 Saturday
              • 09:56

              「教育サボタージュ論(上)」

               

              「教員サボタージュ論」を慎ましく展開すると書いたので、ちょっとだけ?書く。

               

              1)労働者として学校ではたらく人間に対してと

              2)教育を受ける子どもに取っての意味と  二つの面で考えている。

               

               まず、1)学校労働者の面から。この論の原理は、シンプルだ。

               

               こうだ、教育はどこまでやってもキリのない仕事であるからして、適当なところでやめるしかないが、それはかなり難しい。だから、自分で「しっかり教育(仕事)しようVSできるだけ教育(仕事)しない」という両方の矛盾する価値観と姿勢をもちながら仕事をする必要がある……ということである。そのケジメをつけるものさしとして「労働時間」を重視しようということだ。ま、遵法闘争ですね。

               

              こんなことは、当たり前と言えばそうなのだが、最近は、学校労働だけでなく、一般の会社や工場もそれが必要となってきているようだ。

               

               教育労働は、サービス労働である。したがって、サービスにはキリがない。しかし、普通のサービス労働は、時間と空間で閉じられている。しかし、教員の教育労働はどうだ?質も量も「勤務の特殊性」論で拡大開放的が「常識」とさえなっている。時間と空間がダーダー漏れている。

               

               しかもやっかいなのは、教員自身がそれを主体的に求めがちになる。つまり、教員は確かに多忙なのだが、諸般の要求や押し付け、そして子どもや保護者の「願い」「欲望」「わがまま」もあり、それを受け入れて、自分で忙しくしている部分もあると想う。

               

               繰り返すが、教育活動はここまでやればいいという線引きができない。だから、文科省や教育委員会、保護者からの「要求」に対し、No!  と言えず、とめどなく、仕事を増やし、自分を追い込んでいるというのが現状だ。

               

               さらに、重要なのは、「それなりに必要な仕事」というのが教育活動だ。「絶対必要」とまではいかないが、「まあ、やらないよりやった方がいい」という仕事が目白押しだ。つまり「望ましい経験の一切を教育という」のだから、線引きなんて非常に恣意的になる。

               

               しかも、家庭に持ち帰ることもできてしまう。だから、どんどん仕事が増えていく。特に、今は、「学校に気合いを入れろ!」という声が外からも多くあるし、市場原理が学校に導入され、成果主義的発想がだんだんと浸透してきている。時間で区切ったら成果が出ないなどと言われてしまう。実は、時間を区切らなくても成果はでないこともあるのだ。

               

               学校の上司もヒラも(私もずっとヒラでしたけど)、唯々諾々で文部行政からの指示を、たいていは何でもかんでも受容していくから、仕事がどんどん増える。労働運動は退化していて、御用組合的活動が増える傾向にある。

               

               もちろん、仕事だって「好きでやっているのではない」という声もある。だが、では、果たしてやめられるか?といえば、やめられないだろう。「仕事を減らすこと=良い教師ではない」という刷り込みがあるからだ。それに、食べていかなければならない。

               

               しかも、教育活動や学校組織の高度な産業化がそれに拍車をかける。ちょっと昔の話だが、暑い夏の時期、子どもたちが「先生、扇風機やめて、クーラーつけてよ」と言う。(現在は、名古屋市の小中学校は既にエアコン完備したが、それまでは、そんなことがすぐにできるとは子どもたちだって想っていなかった。) 40度近くある、鉄筋四階の六年生の教室はそのクーラーを求めていたのだ。

               

               だが、当時の私は「君らさ、でも、クーラーを入れると、授業も今のように早めに終われなくなるかも。そして、夏休みもすずしいんだから、やめて、授業日にしようよとか、言い出す大人がいるんだぜ。どうする?」と聞いてみる。彼らは、「そうか、それやだな」という子どもがまだいた。

               

               結局、エアコンが完備され、昔の短縮授業はなくなった。短縮授業はよかったなあと想う。子どもも、午前中で帰れたし、教員もしばし、ゆとりある午後が送れた。おそらく、夏休みもどんどん短くなるだろう。つまり、「環境を整えたら余裕が出る」ということはないのだ。それが産業化だ。

               

               以前、勤務していた学校の事務職員が「新しくコピー機をリースします。以前にくらべてとてもきれいです。でも、ちょっと操作が複雑ですけどぉ……」と説明した。だが、はっきり言えば、使いにくかった。慣れと言われてしまうならそれまでだ。しかし、説明書を読んでも、なぜ、縮小すると、文字が切れるのかがわからない。また、どうして、電源スイッチを二つもつけなくてはならないのかがわからない。しばらくはみんなぶーぶー言って使っていた。でも、別に仕事がラクになり減ったわけではない。

               

               結局、故障(紙詰まり)しても自分で直そうとしないし、直せないので業者を呼ぶ。時間がかかる、金もかかる。そして、誰かが儲かるのだ。

               

               どんどん便利になり、PCが至る所に導入される。PCが本格的に導入された15年ぐらい前、『愛知県教育例規集』が隔年発行の分厚い冊子(5僂らい)から、CDデーターに変わった。「例規集」のときは、二年ごとに改訂されて、新しく購入していたが、CDをPCにインストールして使うようになった。紙の節約だそうだ。だが、結局、しばらくすると、また厚手の冊子に戻した。もちろん、現場では、その方が使いやすかったのだ。

               

               あるいは、印刷機が便利になり新しくなればいいのか? テストやプリントが増えるだけではないか? 便利さは多忙をうむのだ。効率化?、それは仕事を増やすという意味だ。

               

               学校における便利さとはこういうことなのだ。生産性を上げようと想えば、逆に「生産性」が下がる(逆生産性の論理)し、仕事は確実に増量される。PCがどんどん入って、みんなラクになったか? 全然。早く帰れるようになったか? 全然。

               

               また、本業の子どもとのつき合いはどうだ。学校教育の世界は、仕事がどんどん「オーダーメイド」になってきた。子どもの「一人一人に応じた教育」を作ろうというのが主流である。しかし、それはいいとしても、オーダーメイドならば、時間と手間と金がかかるのが普通の常識だ。そこはどうするんだ!と問いたいが、ほとんど教育学の学問的成果は意味も力も持ちえていない。どんな情況なら、労働環境ならその「オーダーメイド」ができるのか?という研究はほとんどない。だって、それは必ず政治的な問題になるから。教育研究は、この高度に産業化された構造的な制度を持つ「教育」というものを相対化できないのだ。

               

               教育という行為自体を考え直してみれば、そこには、一人一人を生かすといいながら、学習の効率を追求し、間違いより正確さを求め、はみ出しより価値準拠を強制し、遅いより早いことを求め、みんなから賛意を得られるユニークさだけを「個性」と呼ぶ、そのようなとめどなく産業的な生活様式と志向を尊重することこそが「教育活動」になっている。

               

               だから、できるだけ「効率をもとめて働かない」ことを試みる。サボタージュは、「適当にやる」「のらくらやる」という怠惰的(のんびり的)側面、意外性=遊び心を持つ故に、労働の相対化を為し、勤勉さによる説得力(「私達は時間外労働もいとわず、死も覚悟して、一生懸命やっているんですから、分かってください」)を放棄するという「逆説的」な闘争=生き方なのである。

               

               幸い、公教育は九年で卒業できる。たとえ勉強ができなくても、不登校でも、不良でも、公教育の留年を聴いたことがない。あっても、本当に特別なものだろう。そこで、私はこの公教育が何点以上取らないと卒業させないなどとなっていないのをとても喜ばしく感じる。

               

               とりあえず、九年時間を経たら卒業させますよっていう学校のアバウトさが私は好きだ。ここが1番ステキなところだ。全面肯定したい。通過儀礼的なことが重要なのだから。世の中は、こうしたほどよいいい加減さやアバウトさによって救われているのだ。がつがつしないで、キッチリとやらないアバウトさこそが、逆に人間らしいとは想わないだろうか?……と30年以上前に「教育サボタージュ論」を提唱?したのである。一部しか賛同は得られなかったけどね。

              (参考文献:岡崎勝 他『極楽非道の教師論』(北斗出版=絶版)1990年)

               

              *次回は 2)子どもにとっての「教育サボタージュ論」を書けたら書く。

               

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                5月23日(火曜日) 「学校託児所論」という想い

                • 2017.05.23 Tuesday
                • 20:49

                 

                 唐突だが二〇年くらい前から、私は「学校託児所論」を持論としている。話しても適当に言ってるように聞こえるので、もちろん(何が「もちろん」か分からないが)、周りは、「岡崎さんは不真面目で、節操というものがないのか?」と言う。

                 

                 その「学校託児所論」について整理してみたい(整理するほど複雑なのか?と突っ込まないで)。これは、「学校は生活する場である」という、私の今現在の主張というか、基本的な「学校の意義」を考える根っこになっている。

                 

                 まず、そもそも学校は、近代になって、とりわけ日本では、「富国強兵政策」のための国民教育として、普及した。そこには、西洋の知をモデルとして、世界の国に追いつこうという「国民的向上心」を育成しようとしていたし、それは、教育官僚たちの大方の意思だった。

                 

                 そして、その後、とくに戦後の学校教育の実態を見てみると、「日本における国民育成」と同時に、「有能で便益・安価な労働力」を育成しようとする意図が、教育政策に見られる。それは、学習指導要領の変遷にも如実に明確に現れている。最近で言えば、教育再生会議や教育課程審議会、経済界の教育への要求などにも見られる。

                 

                 しかし、実際の学校では、そういうイデオロギー的な問題よりも、日中に子どもが安全な場所で、託児されているからこそ親は仕事ができるということに意義があるのだということは、あまり自覚されていない。

                 

                 また、勉強を教えると言っても小学校では、勉強よりも子どもたちは友だちと遊ぶ時間が一番充実しているし、給食をいちばん楽しみにしている子は多い。「学校は勉強するところだ」という言い方は、学校の物語を大事にする意味で正しい。しかし、現実には、その勉強の優先順位は第2、3位だろう。

                 

                 では、一番に教員がエネルギーを投下しているのは何か? それは、子どもたちが共同的かつ協働的生活を営めるようにすることだ。

                 

                 掃除や給食の配膳などを、協働して為すこと。ケンカをしたり、トラブルが起きたりしたら、うまく調整し、仲直りできること。暴力や差別をしない、されないような集団をつくることである。

                 

                 一部の社会的に地位のある人々が、「道徳教育の強化」を声高に言っているが、そんなことをして、子どもたちがモラルを持って行動できるなら、教員は苦労しないし、そんなラクなことはない。

                 

                 文科省主導の道徳教育が持つ政治的意図への批判もあるが、多くの教員は、「道徳の授業なんて、意味がない、実効性がない」と確信している。「悪いことはやってはいけません」と言って、そのとおりになると思っている方がどうかしている。

                 

                 学校は、日常的に、生活の中で、子どもたちがいろいろな問題と向き合う中で、それらを解決し、決着を付け、あるいは回避しながら、それでも「みんなで楽しく生活していく」ことをめざす場だと、私は思っている。

                 

                 そういう意味で「子どもを預ける場所=託児所」としての学校なのだ。これを言うと、まじめな教員は「岡崎さんは、どうも、勉強をバカにしている」というので、「バカにしているわけではないが、それほど尊重もしていない」と応えている。とりわけ「子どもは本来、なんでもできるようになる可能性を持っている」と真剣に思っている先生から怒られる。

                 

                 だが、私は、「どんな子どもも可能性があって、勉強ができるようになるはずだ」とは思っていない。「どんな子どももできるようになるものもあれば、できないものもある」と思っている。チャレンジしたり、頑張ったりすることは大事だが、できないからといって自分はダメだと思う必要もないと思っている。

                 

                 学校は、できる子もできない子もいっしょに「うまく生活する」ことを目標にしたい。できれば、何か一つくらい「得意なこと」「やってみたいこと」があればいいなあと思う。

                 

                 色々な個性の子どもが集まる学校で、ハッキリしていることは、異質なものを「管理」するのには、モノだって人だって「コスト」がかかるのだ。そのコストをケチれば、差別して区別して分類して間引きするしかないのだ。だから、学校はあくまで来る者を拒まない、去る者をちょっとは追っかける「質のいい託児所」でなくてはならないのだと思う。

                 

                 読者のみなさんにしかられなければ、次回は「教員サボタージュ論」をつぶやいてみたい。

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                  5月13日(土曜日) すべての子どもは予想できない……ものだ

                  • 2017.05.13 Saturday
                  • 17:48

                   

                   最近、特別支援の対象になるような子どもたちにどうやって勉強を教えるかという集まりに、月一で参加しはじめた。みんなとても熱心で、子どもにどうやったら向き合って学習支援できるかということを模索している。準備もそれなりしていくが、質問がみんな深くてリアルである。

                   

                   私が一貫して分かって欲しいのは、ほんとうに子どもひとりひとりみんな違うから、「良い方法」だからと言ってうまくいくとは限らない。うまくいかないときは、子どものせいでも、自分のせいでもなく、方法のせいだと思えばいいということだ。もっといえば、「運が悪かった」でもいい。

                   

                   「視覚支援」という方法だって、ピンキリでうまくいくかどうかなんて、やってみなけりゃ分からないし、うまくいっても、そのうまくいく度合いだっていろいろだ。つまり、「よりまし」の積み重ねを、教える側は続けるしかないのだ。そして、大事なことはベター(よりまし)なことをいくらつづけても、その子にとってベストになるとは限らないということだ。はっきり言えば、むなしいことをするのが支援なのだということだ。

                   

                   よりましな方法を模索するために、方法をいろいろ工夫するということに尽きるし、方法をいろいろと知っておいたほうがいいということでもある。むろん、それですべてなんとかなるというわけではない。クズゴミのような方法もあるからだ。

                   

                   で、子どもにとっては、「ゆかい」「おもしろい」「わかった」「できた」とかまあ、いろいろな肯定的な帰結成果が多少あれば、とりあえずは、給料分かなと思う。

                   

                   学校でも特別支援教育の学習方法論はそれなりに蓄積があるのだが、必ずしもうまくいっているとはいえない。教える資格や免許、経験がたとえあったとしても、それが必ずしも役に立って効果的だとは断定できないのが「おもしろい」ところだ。

                   

                   そもそも、学習支援は子どもに障害があるなし関係なく必要なのであって、それは、押しつけから自分から進んでやるようにするという方法まで多種多様だ。私は、多くの専門家の先生には申し訳ないが、子どもの顔色や様子をどれだけ教える側が認知できるかということが、一番大事なことかなと思う。「現場で事件は起きている」ということにつきる。それは専門技術というより性格とか資質、気質にかかっていると思う。つまり、子どもとの関係性ということだと思う。

                   

                   心理学の専門家や、特別支援教育の専門家と言われる人達が、熟知しているのはあくまでノウハウであり、経験知とか、学問的知見というきわめて「限定的な汎用性の少ないもの」なのだ(もちろん有用なのだが)。だから、一番困るのは、現場で専門家づらしている人達である。現場にいないで専門家づらしても、それは放っておけばいいから、別にかまわない。

                   

                   先日、テレビで発達障害の子どもたちがいる教室では、黒板のまわりにカーテンを引いて、よぶんな刺激を与えないで黒板に集中させようということが「専門的配慮」として紹介されていた。こういうことが専門家のやることだったら、「もういいや」と思う。

                   

                   黒板にそんなに集中させなきゃ行けないのか?と私は思うのだ。もし、そんなに集中させたかったら、視野を狭めるメガネか、周りが見えないように馬車の馬につけるような視野遮断の道具でもつければいいじゃないかと……ま、冗談だけど思う。

                   

                   授業にそんなに集中させなきゃ行けないのか? ああ、やれやれと想いながら、運動場をながめたり、時間割を見ながら「あと給食まで二時間かぁ」とか、黒板の横のカレンダーの絵を見ながら「きれいだな」とか、いろいろ考えてもいいのではないか……と思う。黒板の横の壁にあるものに、そんな魅力的なものがあるなんてすごいじゃないかと思うし、おそらく、それに気を取られるくらい「黒板」がつまらないのかもしれないと思う。

                   

                   唐突だが、宇佐川浩さんの『障害児の発達臨床』上下は良い本だと思う。なぜ良い本かというと、「障害児は予想ができない」とちゃんと書いてある。しかも、かなり詳細に臨床事例が分析してある。それは「あらゆる子ども」を経験できない教える側としての自分の限界を教えてくれる。もちろん、専門書だから類型的ではある。しかし、類型的であるほど個別は重要ということが反射的に理解できる。良い本だ(笑)。

                   *この本は基礎から応用までがしっかり書いてあるとても良い本です。ぼくはおすすめします。

                   

                   そもそも、子どもたちが、じっと机に座っていること自体が異常なことなのだとは思わないのだろうか。それでも、なんとか座っていてくれれば10分くらいは先生の話を聞いていて欲しいなと思うくらいで満足してもいいと思う。

                   

                   だって、静かにみんな前を向いていても、なーーにも聞いていない子だってたくさんいるでしょう。聞いたふりしているのもどうかと思うよな。完全にとりとめない話でした。もうしわけない。

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                    4月9日(日曜日)大臣の「謝罪」と、レイモンド・カーヴァー

                    • 2017.04.09 Sunday
                    • 10:33

                     

                     昨日、自分の不注意で大事な会議に参加できなくなって申し訳ない想いでいっぱいなのだ。しかし、いくら謝罪したって昨日の朝にもどるわけでもないので、潔く「申し訳ない」と連絡して欠席した。反省しきりだが、自分の能力(今回は体力・身体面)の限界もしっかりと感じたので、前向きに考えよう(笑)と思う。おおげさなと言われそうだが。

                     

                     電話で謝罪しながら、フッと謝るってことはなんだろうか?と考えこんでしまった。最近、復興大臣が為した、記者へ向かっての激昂した物言いは、辞任に値すると思うのだが、しかし「謝罪」だけで済むのかと思う。だって、震災復興の一番重要なポイントを外しての暴言だ。

                     

                     言葉は発したらその責任は自分にあるのだ。単なる書類のミスではない。芯からそう思っているのだ。つまり、いい歳をして、感情的になるということは、それが「本音」だということだ。だから、辞めるしかないだろうと思う。

                     

                     最近は、自分の発した言葉に責任を取る(範囲、重要性、影響をどの程度まで考えているか)ということが分かっていない社会になりつつある。ラインやFBなどSNS(このブログもだけれど)の普及がその原因の一端を担っているような気もする(ちょっと安易な考えだけど)。

                     

                     自分にも、子どもにも言い聞かせているのだが、「反省」のレベルで許せることと、そうでないことの区別をしなければならない。大人ならできるはずなのにそれができない。そういう「代表」をたくさん送ってしまった「国民」の問題だと思った方が良い。

                     

                     私は、あの復興大臣を人間的にダメだとか言うつもりはない。だって、ダメな人間はたくさんいる。自分もそう言われればそうだ。だが、大人として、ましてや社会人として一線を踏み越えたなと思う。だから、辞めるべきだ。深く深く反省し、よく考えてもらって、まず、大臣としての責任を取り、辞めて、今以上に研鑽し、またチャレンジすればいい。

                     

                     私としては、彼には今後も大臣という仕事は辞めていただきたいが。彼は、自分の社会的役割の大きさを理解できず、しかも社会的な常識も外してしまったのだ。だが、一番悲劇なのは、その席に居続けるという、その「みっともなさ」を彼が自覚できていないというところなのだろう。「なんで辞めなきゃいけないのだ、謝罪したじゃん」というのだろうか。幼稚園年長の子どもか? そういう自分の為したことの問題が自覚できない者にチャレンジは無理だろうと思ってきた。

                     

                     ところで、今日の本題は、雑誌から依頼されて「子育てで役立つ本を一冊薦めて欲しい」と言われたことについて。そこで『ささやかだけれど、役に立つこと』というレイモンド・カーヴァーの短編の入った同名の書籍(上記書影)を薦めることにした。この小説、現在手に入れやすいのは『大聖堂』(下記書影)という新書に所収されているものだ。

                     

                     なぜ薦めたかというと、子育てのしんどさが続くとき、あるいは、どうしようもない出来事に出会ったとき、あるいは、出口の見えないとき、そんな絶望という壁にあたったときに、どうするか? そのときこそ、日々の暮らしを淡々と営むことが重要なのだと、私はそれを読み取ったから。

                     

                     カーヴァーの作品は、ちょっと滅入ることがあると、繰り返し読む本だ。この30頁たらずの小説は夫婦に起きたどうしようもない不幸なできごとを、自分たちで受け止められず、他者に当たり散らすことしかできない悲しい二人に、一人の真面目なパン屋さんが向き合う話だ。

                     

                     表題のように「ささやか」なことなのだけれど、「役に立つこと」が世の中にはたくさんあると思う。つらいときには、他者のせいにしたり、自分をおとしめたりせずに、きちんと自分の限界と事実に向き合うことしかない。それは、孤独ではあるけれど、自分自身をいとおしく思い、次のステップに踏み出したり、今の厳しさに耐える勇気を得ることでもあるのだと、私は信じる。

                     

                     

                    *昨日、会議に行く途中にちょっとした不注意で腰をいためてしまったので、反省しながら書きました。年相応に劣化しています。

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                      親が読んでもよく分かるように書きました。

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