5月26日(金曜日)自律的に働くということ「教育サボタージュ論(上)」

  • 2017.05.27 Saturday
  • 09:56

「教育サボタージュ論(上)」

 

「教員サボタージュ論」を慎ましく展開すると書いたので、ちょっとだけ?書く。

 

1)労働者として学校ではたらく人間に対してと

2)教育を受ける子どもに取っての意味と  二つの面で考えている。

 

 まず、1)学校労働者の面から。この論の原理は、シンプルだ。

 

 こうだ、教育はどこまでやってもキリのない仕事であるからして、適当なところでやめるしかないが、それはかなり難しい。だから、自分で「しっかり教育(仕事)しようVSできるだけ教育(仕事)しない」という両方の矛盾する価値観と姿勢をもちながら仕事をする必要がある……ということである。そのケジメをつけるものさしとして「労働時間」を重視しようということだ。ま、遵法闘争ですね。

 

こんなことは、当たり前と言えばそうなのだが、最近は、学校労働だけでなく、一般の会社や工場もそれが必要となってきているようだ。

 

 教育労働は、サービス労働である。したがって、サービスにはキリがない。しかし、普通のサービス労働は、時間と空間で閉じられている。しかし、教員の教育労働はどうだ?質も量も「勤務の特殊性」論で拡大開放的が「常識」とさえなっている。時間と空間がダーダー漏れている。

 

 しかもやっかいなのは、教員自身がそれを主体的に求めがちになる。つまり、教員は確かに多忙なのだが、諸般の要求や押し付け、そして子どもや保護者の「願い」「欲望」「わがまま」もあり、それを受け入れて、自分で忙しくしている部分もあると想う。

 

 繰り返すが、教育活動はここまでやればいいという線引きができない。だから、文科省や教育委員会、保護者からの「要求」に対し、No!  と言えず、とめどなく、仕事を増やし、自分を追い込んでいるというのが現状だ。

 

 さらに、重要なのは、「それなりに必要な仕事」というのが教育活動だ。「絶対必要」とまではいかないが、「まあ、やらないよりやった方がいい」という仕事が目白押しだ。つまり「望ましい経験の一切を教育という」のだから、線引きなんて非常に恣意的になる。

 

 しかも、家庭に持ち帰ることもできてしまう。だから、どんどん仕事が増えていく。特に、今は、「学校に気合いを入れろ!」という声が外からも多くあるし、市場原理が学校に導入され、成果主義的発想がだんだんと浸透してきている。時間で区切ったら成果が出ないなどと言われてしまう。実は、時間を区切らなくても成果はでないこともあるのだ。

 

 学校の上司もヒラも(私もずっとヒラでしたけど)、唯々諾々で文部行政からの指示を、たいていは何でもかんでも受容していくから、仕事がどんどん増える。労働運動は退化していて、御用組合的活動が増える傾向にある。

 

 もちろん、仕事だって「好きでやっているのではない」という声もある。だが、では、果たしてやめられるか?といえば、やめられないだろう。「仕事を減らすこと=良い教師ではない」という刷り込みがあるからだ。それに、食べていかなければならない。

 

 しかも、教育活動や学校組織の高度な産業化がそれに拍車をかける。ちょっと昔の話だが、暑い夏の時期、子どもたちが「先生、扇風機やめて、クーラーつけてよ」と言う。(現在は、名古屋市の小中学校は既にエアコン完備したが、それまでは、そんなことがすぐにできるとは子どもたちだって想っていなかった。) 40度近くある、鉄筋四階の六年生の教室はそのクーラーを求めていたのだ。

 

 だが、当時の私は「君らさ、でも、クーラーを入れると、授業も今のように早めに終われなくなるかも。そして、夏休みもすずしいんだから、やめて、授業日にしようよとか、言い出す大人がいるんだぜ。どうする?」と聞いてみる。彼らは、「そうか、それやだな」という子どもがまだいた。

 

 結局、エアコンが完備され、昔の短縮授業はなくなった。短縮授業はよかったなあと想う。子どもも、午前中で帰れたし、教員もしばし、ゆとりある午後が送れた。おそらく、夏休みもどんどん短くなるだろう。つまり、「環境を整えたら余裕が出る」ということはないのだ。それが産業化だ。

 

 以前、勤務していた学校の事務職員が「新しくコピー機をリースします。以前にくらべてとてもきれいです。でも、ちょっと操作が複雑ですけどぉ……」と説明した。だが、はっきり言えば、使いにくかった。慣れと言われてしまうならそれまでだ。しかし、説明書を読んでも、なぜ、縮小すると、文字が切れるのかがわからない。また、どうして、電源スイッチを二つもつけなくてはならないのかがわからない。しばらくはみんなぶーぶー言って使っていた。でも、別に仕事がラクになり減ったわけではない。

 

 結局、故障(紙詰まり)しても自分で直そうとしないし、直せないので業者を呼ぶ。時間がかかる、金もかかる。そして、誰かが儲かるのだ。

 

 どんどん便利になり、PCが至る所に導入される。PCが本格的に導入された15年ぐらい前、『愛知県教育例規集』が隔年発行の分厚い冊子(5僂らい)から、CDデーターに変わった。「例規集」のときは、二年ごとに改訂されて、新しく購入していたが、CDをPCにインストールして使うようになった。紙の節約だそうだ。だが、結局、しばらくすると、また厚手の冊子に戻した。もちろん、現場では、その方が使いやすかったのだ。

 

 あるいは、印刷機が便利になり新しくなればいいのか? テストやプリントが増えるだけではないか? 便利さは多忙をうむのだ。効率化?、それは仕事を増やすという意味だ。

 

 学校における便利さとはこういうことなのだ。生産性を上げようと想えば、逆に「生産性」が下がる(逆生産性の論理)し、仕事は確実に増量される。PCがどんどん入って、みんなラクになったか? 全然。早く帰れるようになったか? 全然。

 

 また、本業の子どもとのつき合いはどうだ。学校教育の世界は、仕事がどんどん「オーダーメイド」になってきた。子どもの「一人一人に応じた教育」を作ろうというのが主流である。しかし、それはいいとしても、オーダーメイドならば、時間と手間と金がかかるのが普通の常識だ。そこはどうするんだ!と問いたいが、ほとんど教育学の学問的成果は意味も力も持ちえていない。どんな情況なら、労働環境ならその「オーダーメイド」ができるのか?という研究はほとんどない。だって、それは必ず政治的な問題になるから。教育研究は、この高度に産業化された構造的な制度を持つ「教育」というものを相対化できないのだ。

 

 教育という行為自体を考え直してみれば、そこには、一人一人を生かすといいながら、学習の効率を追求し、間違いより正確さを求め、はみ出しより価値準拠を強制し、遅いより早いことを求め、みんなから賛意を得られるユニークさだけを「個性」と呼ぶ、そのようなとめどなく産業的な生活様式と志向を尊重することこそが「教育活動」になっている。

 

 だから、できるだけ「効率をもとめて働かない」ことを試みる。サボタージュは、「適当にやる」「のらくらやる」という怠惰的(のんびり的)側面、意外性=遊び心を持つ故に、労働の相対化を為し、勤勉さによる説得力(「私達は時間外労働もいとわず、死も覚悟して、一生懸命やっているんですから、分かってください」)を放棄するという「逆説的」な闘争=生き方なのである。

 

 幸い、公教育は九年で卒業できる。たとえ勉強ができなくても、不登校でも、不良でも、公教育の留年を聴いたことがない。あっても、本当に特別なものだろう。そこで、私はこの公教育が何点以上取らないと卒業させないなどとなっていないのをとても喜ばしく感じる。

 

 とりあえず、九年時間を経たら卒業させますよっていう学校のアバウトさが私は好きだ。ここが1番ステキなところだ。全面肯定したい。通過儀礼的なことが重要なのだから。世の中は、こうしたほどよいいい加減さやアバウトさによって救われているのだ。がつがつしないで、キッチリとやらないアバウトさこそが、逆に人間らしいとは想わないだろうか?……と30年以上前に「教育サボタージュ論」を提唱?したのである。一部しか賛同は得られなかったけどね。

(参考文献:岡崎勝 他『極楽非道の教師論』(北斗出版=絶版)1990年)

 

*次回は 2)子どもにとっての「教育サボタージュ論」を書けたら書く。

 

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    5月23日(火曜日) 「学校託児所論」という想い

    • 2017.05.23 Tuesday
    • 20:49

     

     唐突だが二〇年くらい前から、私は「学校託児所論」を持論としている。話しても適当に言ってるように聞こえるので、もちろん(何が「もちろん」か分からないが)、周りは、「岡崎さんは不真面目で、節操というものがないのか?」と言う。

     

     その「学校託児所論」について整理してみたい(整理するほど複雑なのか?と突っ込まないで)。これは、「学校は生活する場である」という、私の今現在の主張というか、基本的な「学校の意義」を考える根っこになっている。

     

     まず、そもそも学校は、近代になって、とりわけ日本では、「富国強兵政策」のための国民教育として、普及した。そこには、西洋の知をモデルとして、世界の国に追いつこうという「国民的向上心」を育成しようとしていたし、それは、教育官僚たちの大方の意思だった。

     

     そして、その後、とくに戦後の学校教育の実態を見てみると、「日本における国民育成」と同時に、「有能で便益・安価な労働力」を育成しようとする意図が、教育政策に見られる。それは、学習指導要領の変遷にも如実に明確に現れている。最近で言えば、教育再生会議や教育課程審議会、経済界の教育への要求などにも見られる。

     

     しかし、実際の学校では、そういうイデオロギー的な問題よりも、日中に子どもが安全な場所で、託児されているからこそ親は仕事ができるということに意義があるのだということは、あまり自覚されていない。

     

     また、勉強を教えると言っても小学校では、勉強よりも子どもたちは友だちと遊ぶ時間が一番充実しているし、給食をいちばん楽しみにしている子は多い。「学校は勉強するところだ」という言い方は、学校の物語を大事にする意味で正しい。しかし、現実には、その勉強の優先順位は第2、3位だろう。

     

     では、一番に教員がエネルギーを投下しているのは何か? それは、子どもたちが共同的かつ協働的生活を営めるようにすることだ。

     

     掃除や給食の配膳などを、協働して為すこと。ケンカをしたり、トラブルが起きたりしたら、うまく調整し、仲直りできること。暴力や差別をしない、されないような集団をつくることである。

     

     一部の社会的に地位のある人々が、「道徳教育の強化」を声高に言っているが、そんなことをして、子どもたちがモラルを持って行動できるなら、教員は苦労しないし、そんなラクなことはない。

     

     文科省主導の道徳教育が持つ政治的意図への批判もあるが、多くの教員は、「道徳の授業なんて、意味がない、実効性がない」と確信している。「悪いことはやってはいけません」と言って、そのとおりになると思っている方がどうかしている。

     

     学校は、日常的に、生活の中で、子どもたちがいろいろな問題と向き合う中で、それらを解決し、決着を付け、あるいは回避しながら、それでも「みんなで楽しく生活していく」ことをめざす場だと、私は思っている。

     

     そういう意味で「子どもを預ける場所=託児所」としての学校なのだ。これを言うと、まじめな教員は「岡崎さんは、どうも、勉強をバカにしている」というので、「バカにしているわけではないが、それほど尊重もしていない」と応えている。とりわけ「子どもは本来、なんでもできるようになる可能性を持っている」と真剣に思っている先生から怒られる。

     

     だが、私は、「どんな子どもも可能性があって、勉強ができるようになるはずだ」とは思っていない。「どんな子どももできるようになるものもあれば、できないものもある」と思っている。チャレンジしたり、頑張ったりすることは大事だが、できないからといって自分はダメだと思う必要もないと思っている。

     

     学校は、できる子もできない子もいっしょに「うまく生活する」ことを目標にしたい。できれば、何か一つくらい「得意なこと」「やってみたいこと」があればいいなあと思う。

     

     色々な個性の子どもが集まる学校で、ハッキリしていることは、異質なものを「管理」するのには、モノだって人だって「コスト」がかかるのだ。そのコストをケチれば、差別して区別して分類して間引きするしかないのだ。だから、学校はあくまで来る者を拒まない、去る者をちょっとは追っかける「質のいい託児所」でなくてはならないのだと思う。

     

     読者のみなさんにしかられなければ、次回は「教員サボタージュ論」をつぶやいてみたい。

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      5月13日(土曜日) すべての子どもは予想できない……ものだ

      • 2017.05.13 Saturday
      • 17:48

       

       最近、特別支援の対象になるような子どもたちにどうやって勉強を教えるかという集まりに、月一で参加しはじめた。みんなとても熱心で、子どもにどうやったら向き合って学習支援できるかということを模索している。準備もそれなりしていくが、質問がみんな深くてリアルである。

       

       私が一貫して分かって欲しいのは、ほんとうに子どもひとりひとりみんな違うから、「良い方法」だからと言ってうまくいくとは限らない。うまくいかないときは、子どものせいでも、自分のせいでもなく、方法のせいだと思えばいいということだ。もっといえば、「運が悪かった」でもいい。

       

       「視覚支援」という方法だって、ピンキリでうまくいくかどうかなんて、やってみなけりゃ分からないし、うまくいっても、そのうまくいく度合いだっていろいろだ。つまり、「よりまし」の積み重ねを、教える側は続けるしかないのだ。そして、大事なことはベター(よりまし)なことをいくらつづけても、その子にとってベストになるとは限らないということだ。はっきり言えば、むなしいことをするのが支援なのだということだ。

       

       よりましな方法を模索するために、方法をいろいろ工夫するということに尽きるし、方法をいろいろと知っておいたほうがいいということでもある。むろん、それですべてなんとかなるというわけではない。クズゴミのような方法もあるからだ。

       

       で、子どもにとっては、「ゆかい」「おもしろい」「わかった」「できた」とかまあ、いろいろな肯定的な帰結成果が多少あれば、とりあえずは、給料分かなと思う。

       

       学校でも特別支援教育の学習方法論はそれなりに蓄積があるのだが、必ずしもうまくいっているとはいえない。教える資格や免許、経験がたとえあったとしても、それが必ずしも役に立って効果的だとは断定できないのが「おもしろい」ところだ。

       

       そもそも、学習支援は子どもに障害があるなし関係なく必要なのであって、それは、押しつけから自分から進んでやるようにするという方法まで多種多様だ。私は、多くの専門家の先生には申し訳ないが、子どもの顔色や様子をどれだけ教える側が認知できるかということが、一番大事なことかなと思う。「現場で事件は起きている」ということにつきる。それは専門技術というより性格とか資質、気質にかかっていると思う。つまり、子どもとの関係性ということだと思う。

       

       心理学の専門家や、特別支援教育の専門家と言われる人達が、熟知しているのはあくまでノウハウであり、経験知とか、学問的知見というきわめて「限定的な汎用性の少ないもの」なのだ(もちろん有用なのだが)。だから、一番困るのは、現場で専門家づらしている人達である。現場にいないで専門家づらしても、それは放っておけばいいから、別にかまわない。

       

       先日、テレビで発達障害の子どもたちがいる教室では、黒板のまわりにカーテンを引いて、よぶんな刺激を与えないで黒板に集中させようということが「専門的配慮」として紹介されていた。こういうことが専門家のやることだったら、「もういいや」と思う。

       

       黒板にそんなに集中させなきゃ行けないのか?と私は思うのだ。もし、そんなに集中させたかったら、視野を狭めるメガネか、周りが見えないように馬車の馬につけるような視野遮断の道具でもつければいいじゃないかと……ま、冗談だけど思う。

       

       授業にそんなに集中させなきゃ行けないのか? ああ、やれやれと想いながら、運動場をながめたり、時間割を見ながら「あと給食まで二時間かぁ」とか、黒板の横のカレンダーの絵を見ながら「きれいだな」とか、いろいろ考えてもいいのではないか……と思う。黒板の横の壁にあるものに、そんな魅力的なものがあるなんてすごいじゃないかと思うし、おそらく、それに気を取られるくらい「黒板」がつまらないのかもしれないと思う。

       

       唐突だが、宇佐川浩さんの『障害児の発達臨床』上下は良い本だと思う。なぜ良い本かというと、「障害児は予想ができない」とちゃんと書いてある。しかも、かなり詳細に臨床事例が分析してある。それは「あらゆる子ども」を経験できない教える側としての自分の限界を教えてくれる。もちろん、専門書だから類型的ではある。しかし、類型的であるほど個別は重要ということが反射的に理解できる。良い本だ(笑)。

       *この本は基礎から応用までがしっかり書いてあるとても良い本です。ぼくはおすすめします。

       

       そもそも、子どもたちが、じっと机に座っていること自体が異常なことなのだとは思わないのだろうか。それでも、なんとか座っていてくれれば10分くらいは先生の話を聞いていて欲しいなと思うくらいで満足してもいいと思う。

       

       だって、静かにみんな前を向いていても、なーーにも聞いていない子だってたくさんいるでしょう。聞いたふりしているのもどうかと思うよな。完全にとりとめない話でした。もうしわけない。

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        4月9日(日曜日)大臣の「謝罪」と、レイモンド・カーヴァー

        • 2017.04.09 Sunday
        • 10:33

         

         昨日、自分の不注意で大事な会議に参加できなくなって申し訳ない想いでいっぱいなのだ。しかし、いくら謝罪したって昨日の朝にもどるわけでもないので、潔く「申し訳ない」と連絡して欠席した。反省しきりだが、自分の能力(今回は体力・身体面)の限界もしっかりと感じたので、前向きに考えよう(笑)と思う。おおげさなと言われそうだが。

         

         電話で謝罪しながら、フッと謝るってことはなんだろうか?と考えこんでしまった。最近、復興大臣が為した、記者へ向かっての激昂した物言いは、辞任に値すると思うのだが、しかし「謝罪」だけで済むのかと思う。だって、震災復興の一番重要なポイントを外しての暴言だ。

         

         言葉は発したらその責任は自分にあるのだ。単なる書類のミスではない。芯からそう思っているのだ。つまり、いい歳をして、感情的になるということは、それが「本音」だということだ。だから、辞めるしかないだろうと思う。

         

         最近は、自分の発した言葉に責任を取る(範囲、重要性、影響をどの程度まで考えているか)ということが分かっていない社会になりつつある。ラインやFBなどSNS(このブログもだけれど)の普及がその原因の一端を担っているような気もする(ちょっと安易な考えだけど)。

         

         自分にも、子どもにも言い聞かせているのだが、「反省」のレベルで許せることと、そうでないことの区別をしなければならない。大人ならできるはずなのにそれができない。そういう「代表」をたくさん送ってしまった「国民」の問題だと思った方が良い。

         

         私は、あの復興大臣を人間的にダメだとか言うつもりはない。だって、ダメな人間はたくさんいる。自分もそう言われればそうだ。だが、大人として、ましてや社会人として一線を踏み越えたなと思う。だから、辞めるべきだ。深く深く反省し、よく考えてもらって、まず、大臣としての責任を取り、辞めて、今以上に研鑽し、またチャレンジすればいい。

         

         私としては、彼には今後も大臣という仕事は辞めていただきたいが。彼は、自分の社会的役割の大きさを理解できず、しかも社会的な常識も外してしまったのだ。だが、一番悲劇なのは、その席に居続けるという、その「みっともなさ」を彼が自覚できていないというところなのだろう。「なんで辞めなきゃいけないのだ、謝罪したじゃん」というのだろうか。幼稚園年長の子どもか? そういう自分の為したことの問題が自覚できない者にチャレンジは無理だろうと思ってきた。

         

         ところで、今日の本題は、雑誌から依頼されて「子育てで役立つ本を一冊薦めて欲しい」と言われたことについて。そこで『ささやかだけれど、役に立つこと』というレイモンド・カーヴァーの短編の入った同名の書籍(上記書影)を薦めることにした。この小説、現在手に入れやすいのは『大聖堂』(下記書影)という新書に所収されているものだ。

         

         なぜ薦めたかというと、子育てのしんどさが続くとき、あるいは、どうしようもない出来事に出会ったとき、あるいは、出口の見えないとき、そんな絶望という壁にあたったときに、どうするか? そのときこそ、日々の暮らしを淡々と営むことが重要なのだと、私はそれを読み取ったから。

         

         カーヴァーの作品は、ちょっと滅入ることがあると、繰り返し読む本だ。この30頁たらずの小説は夫婦に起きたどうしようもない不幸なできごとを、自分たちで受け止められず、他者に当たり散らすことしかできない悲しい二人に、一人の真面目なパン屋さんが向き合う話だ。

         

         表題のように「ささやか」なことなのだけれど、「役に立つこと」が世の中にはたくさんあると思う。つらいときには、他者のせいにしたり、自分をおとしめたりせずに、きちんと自分の限界と事実に向き合うことしかない。それは、孤独ではあるけれど、自分自身をいとおしく思い、次のステップに踏み出したり、今の厳しさに耐える勇気を得ることでもあるのだと、私は信じる。

         

         

        *昨日、会議に行く途中にちょっとした不注意で腰をいためてしまったので、反省しながら書きました。年相応に劣化しています。

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          3月27日 感想文:石川晋さんの『学校でしなやかに生きるということ』を読んで

          • 2017.03.28 Tuesday
          • 12:03

           

           『お・は』67号で断然、多くの人に薦めたいと書評をする石川晋著『学校でしなやかに生きるということ』(フェミックス:2016年4月刊)がある。『お・は』では600文字くらいしかスペースがない。もちろんその中で頑張って書いてみたが、若干、書き足りない点が多かったので、追加してここに書いてみたいと思う。

           

           本書は『We』誌で連載されたものを加筆編集したものである。石川さんは北海道十勝の国語科の中学校教員で1967年生まれ。著書も多く、彼のことを知る教員ファンは多くいるのだが、私自身が知ったのは遅く四、五年前。

           

           なんども、北海道へは講演に行っているのだが、そこで会えたらよかったなあと、ちょっと後悔している。とりわけ十勝へは何度も行ったので。

           

           『授業づくりネットワーク』誌だけでなく、いろいろなところで活動している石川さんを私自身が知らなかったのは、小学校と中学校ということだけでなく、私の方に「法則化」(Toss)や、そこと若干近いところもある『授業づくりネットワーク』への、ある種のむかつく(笑)想いがあったからだろうなと思う。それは、まあ、おくとして、本書を読んでいろいろと想ったことを書いていく。

           

           まず、いくつか石川さんと共通する学校への意識があることにちょっとニヤついた。最初に書かれた「善意ほど人を苦しめるものはない」というのは、ある一定のところまで(仕事としても、人間関係としても)行かないとなかなか思えないのだが、これはホントそうだよなと、私も思い続けている。むろん、善意だけでなく、悪意はもっと人を苦しめるけれど、善意は毒まんじゅうのようなところがあるから、たちが悪い。だからこそ、教員である石川さんは厳しくこう言うのだろう。

           

           若い頃、私はたたみやカーペットを教室に持ち込み子どもだけの空間を作っていたが、本書の中でもそれがきちんと論理的に展開されていることに共感した。それから、村田栄一さんの『ガリバー』への想いから「教室はハプニングが起こる場所であり、ハプニングこそが教室で学ぶことの本質だ」というところなどは、そうなんだよなと。

           

           まあ、とにかく、読んでいて子どもへの向き合い方が、つまり「どう距離を取るか」という視点を据えていることには「御意」なのだ。

           

           この本を読んでいると、私自身がよく言われる「どうして岡崎さんは、実践をかたらないのですか?」という繰り返される質問を思い出してしまう。いやいや、私も実践していますし、語っているつもりんなんですけど、というか、仕事していますから……としか言いようがない。でも、私は、実践を語るとか書くという仕事にどうしても力が入らないで、ななめに構えてしまうのだ。石川さんのように仕事を書いていても、抵抗なく読めるのはうれしい。多くの実践記録は先入観ですけど、抵抗があるので、読まない。

           

           私も、石川さんのように書ければいいんだけど、なかなかここまでの表現は私には難しい。石川さんは合唱や演劇にも堪能で、子どもたちを熱中させる。しかも、成果をあげる。つまり、「良い仕事してますね」ということに尽きるし、うらやましいし、まったく完全無欠の異議無しなのだ。しかし、その実践や成果を、どことなく、突き放しているところに、さらに共感してしまう。

           

           集団的自衛権問題では、子どもたちにぎりぎりの「問題を提起」するし、子どもたち自身の声を聞こうと、かなり根気よく接し、みごとだなあと思う。職場でもそれなりに浮くだろうなあと思うし、浮く覚悟もしているのだろうなと確信する。(浮いてなければ幸いですが、ちょっとは浮かないとダメだと私は思う)

           

           最後に一つ。実を言うと、私は、石川晋の暗黒面こそに、魅力を感じてしまうのだ。ところどころの行間に、ちらっとかげと言うよりは不可解な「ためらい」というか「達観」「居直り」のようなものを見てしまう私は、かなり不謹慎な読者なんだろうと思う。石川ファンの皆さんも、意外とそれに気づいているのではないかと思う次第であります。

           

           この3月に中学校をやめるという噂?も聞いている。ちょっと残念ではある。昔、村田栄一や遠藤豊吉が退職したとき、ぼくはむかついて文句を言ったのですけど。石川さんは許す(笑)。私のように、いつまでも学校に寄生?し、シロアリ的にいこうと思っている不良教員とは違うのだから。

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            3月24日金曜日 『おそい・はやい・ひくい・たかい』96号発刊とICT教育???

            • 2017.03.24 Friday
            • 14:30

             

             

            またまた『おそい・はやい・ひくい・たかい』96号本日発刊。特集「いまどきの反抗期、親へのアドバイス」年齢不問、出方いろいろ。ということです。

             

             ま、読んでもらうしかないのですが、事例がかなり豊富で、暴れるから、お金問題から身の回り、人のせいにするなど9ケースを挙げています。連載頁も充実しています。宮台さんの男親シリーズは「学校・教育のこれから」です。村瀬さんのアニメ評論は「『この世の片隅に』で『絵』が伝えていること」です。

             

             昨日は97号に向けて、大阪で平田オリザさんとコミュニケーションについて対談をしてきました。あっという間の2時間でしたが、いろいろとおもしろい話が聞けました。97号もじゅうじつするでしょうね。きっと。

             

             今度の学習指導要領では、プログラミング学習などと、さらにICT教育が煽られていますが、まあ、所詮はだらだら・やれやれ・あーあーと現場は健全に受け止めるとぼくは思っています。タブレットを子ども全員に配布した行政区もあるらしいですが、もうこのさい、自分で修理できないものは個人渡ししない!方がいいと思います。タブレットなんてほんとこまった機械でしょ。もちろん、大人は自分が好きで使っているんだからいいんですけどね。

             

             学校で使うとなると、タブレットは、修理を含めてのメンテナンスなど、ほんとうに手間のかかる機械です。そもそも、そこから得られる情報はそんなにすごいのだろうか??と思うのです。いや、万が一すごくても、「すごい」ことはいいことかと思うわけです。

             

             よくICT教育を推進する人が言うのですが、「心配はいりません。人間的な感情的なことや、発想などは人工知能ではむつかしいので一人歩きはしません」とか。でもね、こうした「近現代機器」は人工知能に限らずに、確実に感情や感性、そして人間の思考回路に影響を与え、変革するものだと思います、ぼくはね。

             

             なにか、「機械は使う人の問題だ!」みたいなことを言っていますが、それは半分は正しいけど、半分は間違っていると思うのです。私自身は機械が好きなのです。それは、便利だけではなく、自分の思うように操作できるという『支配欲』を満たしてくれるからです。しかし、時として、私自身が逆に支配されているのではないかと思うことがあります。

             

             なぜなら、機械は合理性と能率性(便利さ)という近代の価値意識をどんどん延長させてこそ価値があるとされているからです。そこには、非能率性への指向はありません。だからこそ、機械を使うことで、よけいに多忙化するでしょ。便利で時間短縮というのは、中身をもっと詰め込めるということです。

             

             「人工知能が人間を支配することなんてフィクションですよ」と言いますが、確かにハル(映画「2010年宇宙の旅」に出てくるコンピュータ)のような人間的支配はないでしょう。しかし、機械によって生活環境を確実に変化させ、そのうえで人間の質を変え、支配するということはあるような気がします。ま、むろん、それが幸せだと感じる人がいるかもしれませんが。(自発的隷属……?)

             

             ツイッターやFBで政治が影響を受けて動いたり、株価が変動したり、コミュニケーションがそれ一辺倒になったりしているのって「人間としての進歩」なんでしょうか。どうも、違うような気がします。たとえて言えば、あらゆるものが「140文字で思考する」ようになっていくのではないかと。それは、俳句や短歌、詩のように、短い言葉で、深い想いを伝えるというのとか違うんだよね。140字でできることは、限定的なのですけどね。

             

             人間が便利さを推進する機械によって、人間自身が不能化していくことは避けられないのかもしれませんが、それに抗い(あらがい)たい気持ちが私には強くあるんです。支配者なき奴隷化とでも言えるんですけど。思いを伝えるのは、せいぜい、こんなちんけで申し訳ないけど、ボクのブログくらいまで(字数等のコンテンツ)は必要だとおもうのだけれど。

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              3月14日火曜日の「子どもの困難を考える」……という話

              • 2017.03.18 Saturday
              • 14:06

               

               先週火曜日の夜に、杁中の幼稚園が会場で三十数名の参加者に「小学生の子どもたちの困難さ:学校から見える家庭」というテーマで話をした。一時間程度であったが、高齢のかたから、学生まで、教養と仕事の参考にと「幅広いニーズ」に応えるべく、整理して話をした。

               

               子どもたちのいまどきを話ながら、問題は大人なのだという基本は維持。この会では「発達障害児」のことについて先回の講座で専門家からお話があったようなので、それを引き継ぐような引き継がないような(笑)私の話の筋道であった。

               

               私自身は「発達障害児」が増加しているとは、ほとんど思っていない。むろん、支援が必要だという論理は分かるし、制度としてのバックアップが必要だと言うことも理解できる。それでも、なおかつ、そうした「特化」が本質的だとはあまり思えないのだ。

               

               現実的には、支援は子ども誰にも必要だし、「手のかからない子」ほど必要な支援もある。子どもたちの困難さの問題は、周囲に「子どもに対する寛容さ」が激減してしまっているところにあるのではないか……とほぼ確信的に思っている。子どもの落ちつきがないということだって、それをまあそんなもんだろうと受け止めている大人は少ない。

               

               その日は、結論的に、「本当に支援が必要なのは、親や教師たち。上から目線で、アドバイスしても共育できない。支援も吟味が必要」と話した。

               

               これは、「昔だって、落ちつきのない、こういう子はいた」と言っているのではない。落ちつきのない子が「支援を受けるべきだ」ということで、逆に特別扱いという名で排除されたり、特別隔離されたりしているから、よけいに不安で落ちつきがなくなるのではないかと思うことがあるということだ。

               

               「落ちつきのない子」とのつき合い方が下手な大人が増えてきていると思う。つまり、教師を含め、みんなちゃんとやることを陰に陽に押し付けてきている。それは、微妙な言い方をするけれど、「ちゃんと」の論理でしか判断し、動けない大人が多いということ。そして、押し付けてはいけないのではなく、子どもたちも、その押しつけをうまくかわすことができなくなっているということなのだ。

               

               で、その時に「不幸せな人間は他者を攻撃しやすい」というベタな社会心理のイロハを話しながら、子どもたちに一番いいのは、親や教師が幸せを感じ、そういう大人が子どもの周りに沢山いることが重要なのですと結論した。ま、いつもの話や講演で言うことなんですけど(笑)。「子どもにいらついたら、しばらく離れましょう」と。

               

               そういう意味で親も教師も 親と子どもの分離の難しさを理解すること。「毒になる親」は子どもに暴力と抑圧までも「愛と承認だ」と勘違いさせると確信している……なんて話をした。

               

               

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                2月25日(土曜日) 書くことは体力だ!

                • 2017.02.25 Saturday
                • 17:38

                 

                 そろそろ理科の授業も終わろうとしている。テストだ、成績付けだ。同時に、原稿を書くことが迫っていて毎日定期的に時間を決めてやっている。

                 

                 私は『ポアロ』が大好きで、現在、水曜日に再放送、土曜日にも再放送と、とりあえず、違うものを放送しているので、それを録画して見ている。同じストーリーをなんども見たけれど、それでも好きでみる。これに浅見光彦シリーズがBSであったりすると、もう原稿どころではない……が、それでも、淡々と書くことにしている。

                 

                 春は、四月の教育特集みたいなものが多いのか、文章を書く機会が多い。とりあえず、断ることはできるだけしないようにしている。なんども書いたが、文章を書くというのは頭脳労働でなく、肉体労働だと思う。だが、こういう文章を書きたいなあという見本みたいなものが私にはある。

                 

                 それは完全なマニアックな話だが、『体育の哲学』(1961年)という本に書かれている佐々木久吉先生の「体育と人間」である。内容は別として、とにかく格調高いのだ。体育教師がこんなに格調高くていいのか?というくらいだ。だが、私には書けないのである。なさけないが、まったく及ばない。佐々木先生は私の師である、影山健が父とすると、佐々木先生は祖父である。「岡崎くん、ひげを剃ってから本を読みなさい」と大学時代によく言われた(笑)。

                 

                 よく、「岡崎さんの書く本はおもしろい」と言ってくれるがそれは、おそらく『体育教師をブッとばせ!』(風媒社)が私の代表作と思っているからだ。それ以後『身体教育の神話と構造』(れんが書房新社)を書いているのだが、それは「本当の岡崎さんじゃないでしょ」と言われてしまう。ううむ。死ぬまでに、絶対に売れないけど、絶対にいい本を書いてやるとときどき思うが、短期記憶は忘れるのだ。

                 

                 さて、今日は、つまる原稿仕事に、きりをつけて、気分転換と栄を歩き、頼んでいた本『五十鈴川の鴨』(竹西寛子著)を取りにロフトのジュンク堂に行ったのだが、レジをしてくれたのが教え子の妹だった。「岡崎先生ですよね」というので、顔を見たら、すぐに思い出した。十五年くらいまえの教え子の妹さんだ。○○さんの妹さんだよねというと「そうです」と賢く応えてくれた。顔の面影に記憶ありで、そして「お母さんって相変わらず元気でしょ」と問うと、「そうなんです、すっごく元気です」と。お母さんもかなり元気で明るい人だったなあと思い出した。『気候変動』(ゲルノット・ワグナー他)もついでに購入。春の気配がする土曜日のお昼でした。

                 

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                  2月19日(日曜日) 新しくパパとママとなるみんなに期待する話

                  • 2017.02.19 Sunday
                  • 17:15

                  今日は、早朝から家を出て、新しくパパ、ママになる人へのアドバイス講演に岐阜へ出向く。

                   

                  昨日、宮台さんと尹さんと講座に参加したときの延長のような話だった。とにかくみんなで協力し合って、孤立しないようにしましょうということを強調。助けはいろいろなところへ求めましょうということを話す。

                   

                  年々、講座を受ける人が増えて、すでに10年近く毎年4回話をしに行っているが、いつも新鮮に、自分自身を反省しながら、かつ、いまどきの子育てにも敏感になるために調査や実態を見聞きしてきた。

                   

                  最近は若いパパママは、ネットによる「検索子育て」の傾向もあるので、その危うさもよく理解していないと「ネットも使えない」ように思う。いずれにせよ、すでに、私の子どもたちと同じか、それよりも年齢が下の「パパ・ママ」であるから、時代の流れには敏感でないと話ができないなあと思う。

                   

                  私が話をするのは、男女共同参画的意識(笑)が強くあるからだろうし、それを期待して依頼されていると思っている。わざわざ、イクメンなどと言わなくてもいいから、妻・ママと家事育児を協働的にやろうという意志がまず必要だし、パートナーたちも諦めずに「夫も成長する」のだという気持で一緒に暮らして欲しいと思うのである。

                   

                  とにかく、パパの方は自分が育児家事をやっているんだと、そんなに偉そうに言う必要はないのだ。いずれにしても、会社の仕事もしんどいとは思うが、「めどがつく」という仕事が多い。とりあえず、やれば、区切りがつけられる。しかし、子育てや家事は、いつまでも延々と続くし、いつ終わるかなんてまったく分からない。子育ては楽しくもあり、苦しくもありなのだ。覚悟はいるけどね。

                   

                   

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                    2月5日(日)「男性の生きづらさ」中村彰さん講演会 IN Nagoya

                    • 2017.02.05 Sunday
                    • 17:55

                     

                     今日は中村彰さんの講演会を聞きに行った。テーマは『男性の生きづらさを考える』ということ。中村さんは『男性学』ができあがったころからの研究かつ活動をしてきたひとで、私もいくつかの論文を読んだり、講演を聞かせてもらって学んできた。

                     

                     以前から、私は男性学を『男生学』として、自分なりに展開してきた。たまたま男性の育児時間請求をはじめて名古屋でしたということで、この世界?に入っていったのだけれど、そのおかげで、中村さんたちのメンズリブ研究や活動に触発されていった。その意味では、ご挨拶もしっかりできなかったが、自分なりに想いのある講演会だった。

                     

                     今、実は……というほどでもないけど、私は「男性差別」についていろいろと考えている。女性差別はガラスの天井で、ほんとに懲りないくらいまだ残っているので闘いは続くし、それを支持していくスタンスなんだけれど、同時に男性の加害者性だけでなく、男性自身も差別されてはいないだろうか?という点も考えてみたいと思ってきた。

                     

                     それは、「男は泣くんじゃない」という一般的な檄に象徴されるように、「男は強くあらねばならない」という価値の枠組みに押しつぶされている、その状況が、かなりしんどい話なのではないかということだ。「肩の力を抜きなさい」と言われても、なかなか抜けないという現実があるからだ。で、「肩の力を抜けばいいんだろうか、それで、解決するんだろうか? もし、そのほかに、肩の力を抜いても大丈夫であるための条件はなんだろうか?」と考える。

                     

                     以前、学校で注射(インフルエンザ予防接種)を打っているときに、一年生の男子が、「なんで、いつも男子が先にうつんだよぉー」と泣いていたことがあった。「男なんだからガマンせぃ」と若かった私は、いまではあり得ないけど、一喝したのだが、今思うと、つくづく男子が先というのがおかしなことだ。つまり、今、ほとんどの学校では男女混合名簿だが、これは、性別を分ける意味がないこと、「いつも男子が先」は平等性に欠くということから来ている。

                     

                     この男女混合名簿論議もいろいろあったし、私もかなり先駆的に取り組んだのだが、いつも男子が先というのもちょっと待てよと思ったことはじじつだ。しかし、「男子が先」で女子を差別しているとしたら、女子が先で男子を差別していることはないのか? あるいは、そもそも後先という考え方が問題なのだろうかと……いろいろ考えるわけです。

                     

                     「レディスディー割引」というのもなんだかなあと思う。もちろん安くサービスされることはいいことだと一応思う。ただ、メンズディも最近はできたのでうれしいが、それなら、LBGTはどうなるのだと思う。SOGI(様々な性的指向・性自認)の人とかも困るだろう。余談だけど。シニア割引はいいのか? 大金持ちのシニアには割引する必要ないだろ、十倍取るのが平等だ、という友達もいたけど。

                     

                     「男性権力」っていうのが、あるとすると、そもそも何かと考えてきたけれど、なかなか難題だ。こういう「男性もきついんだ」みたいなことをいうと浅薄なフェミニズムからは指弾されることがあるので慎重さが必要だ。ただ、男だって弱音を吐いてもいいんだとか、男だからといって強がる必要はないんだと言われるけれど、なぜそれがなかなか男に受け入れられないかを考えてみたいと思っている。男は「ガラスの地下室」なんだそうだ。見えない壁に囲まれて出られなくなっているという比喩なんだけど。ううむ……。

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                      親が読んでもよく分かるように書きました。

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